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YVR 島から見たり聴いたり

トロント生活40余年の後に西海岸
ブリティッシュ・コロンビア州の州都
ビクトリア市に国内移住。
新たな街からの生のニュースを
バンクーバー発行の日本語誌
「バンクーバー新報」に2017年より新連載。
歯の話

 

久し振りの虫歯

 

何を食べたいた時か思い出せないのだが、先日食事中にポロっと奥歯の一部が欠けてしまい、もう少しで飲み込むところだった。

 

かぶせていたポーセリンの一部かと思ったら、あにはからんや、「虫歯ですよ」と歯医者に事もなげに言われ正直驚いた。

 

年二回の検診を怠ったことはなく、朝晩の歯磨きは勿論のこと、かなり神経を使って歯の健康を維持して来た積りだったからだ。

 

私の歯医者嫌いは、治療費が高いからというだけではない。診療室の椅子が倒されるとまったく無防備で、まるで遡上の魚のようになることや、続いて聞かされる「キーン」「ガガガッ」と言う身の毛のよだつ歯を削る器械の音が堪らなく嫌なのだ。

 

もし誰かが「音なし器械」を発明したら、文句なくノーベル賞を授与したいと思う。

 

まあ、虫歯は虫歯で自分ではどうすることも出来ず、3回ほど通って完治したのは嬉しいが、来月のクレジットカードの支払日が恨めしい。

 

 

審美歯科医

 

それにしても歯医者の待合室に座り、貼ってあるポスターのモデルを見ていつも疑問に思うことが一つある。一体生物学的な見地から見て、歯並びの「良い人種」とか「悪い人種」というのがあるのだろうかと。

 

もしあるとしたら、日本人は絶対に後者ではないかと確信する。

 

日本では有名な歌手、映画俳優、スポーツ選手、TVのリポーター等どの知名人でも、歯並びの凸凹な人が実に多い。ましてや街頭インタビューなどで、道行く人がマイクに向かって自分の意見などを言う番組に登場する一般人においては、目を覆いたくなる人の何と多いことか! 

 

いまだに歯への意識改革がそこまで進んでいないためかと思っていたら、あるコンピューターのサイトで、東京のビジネス街で開業している歯科医の談話が載っていた。

 

「日本人は諸外国と比べてメイクやファッションではきれいに装っているのに歯並びのよくない人が多い」と言い「外側ばかりを意識して、歯は最後になりがち」と指摘していた。

 

私は膝を叩いたのだが、日本語では「審美歯科医」と呼ばれるこの医師は、北米の歯科医と同じに、今ある歯を極力抜かずに美しい口内環境を整える治療に専念していると言う。

 

もちろん多額のお金が掛かる。

 

だが北米の親たちが子供の歯の矯正をするのは、ただ見た目を綺麗にするだけではなく、噛み合わせや話し方など、口腔の機能面を支える意味でも重要な役割を持つことを知っているからだ。

 

笑顔の黄金比率

 

普通は外国生活が長い日本人は、意識が高いとこの歯科医は言い、「健康にもビジネスにも最大の効果をもたらすのは美しい歯で、笑顔の黄金比率は“歯”で決まる」と断言する。

 

確かにそうだと思いながらも、昔私が親しくしていた東京の超有名な大学院の社会学者は、外国での研究生活が長く、そうしたレベルの人たちとの交流が多々あるにも関わらず、それは見事に不揃いの歯であった。

 

ある日ランチをご一緒したら、サラダに出たホウレンソウが前歯に引っかかってしまい、話すたびにクリーンの葉っぱが見え隠れ。どう指摘しようかと一苦労したのを覚えている。

 

演歌歌手として一世を風靡した今は亡き美空ひばりも、売り出しの頃は凸凹歯。売れっ子になるに従ってキリっと揃った歯に矯正したが、それが歌のうまさに相まって歌謡界の女王になった一因だったとか。

 

信じるに足る逸話である。

 

 

 

 

 

 

| - | 04:48 | - | - | - | - |
日本における外国人の技能実習生の実態

12月1日付け朝日新聞の記事(↓)をまず読んで欲しい。

日本政府の浅はかで、かつ人間実のない技術実習生の実態とその余波がこんな形で表れていることに、やり場のない怒りを感じる。まるで戦前日本の貧しい農漁村の娘たちが「からゆきさん」として東南アジアに送られた時代がオーバーラップしてしまうのは私だけだろうか。

もちろん働き口の内容や、今度は東南アジアの国々から日本へ働きに来るという違いはある。しかし「恋愛」や「妊娠」なんてもってのほか、そうなってしまったら「もう商品(物)としての価値はない」と放り出されたあの暗黒の時代。

2018年の今G7の一員となった日本と言う国で、こんなことがまかり通るのだろうか?!入管法改正で大幅に増えるであろう外国人の働き手たち。増々起こる事が予想される同様の問題を、日本政府はどのように対処する積りか?

もっと地に足を着けてしっかりとした、そして人間味のある対応策を考えてから立法すべきではないのだろうか?!

 

〜*〜*〜

朝日新聞2018年12月2日付け

中絶か帰国か、迫られた実習生 専門家「モノとしか見ていない」

 

写真・図版

研修施設が実習生に約束させる同意書。「恋愛行為は一切禁止」などとある

 

 外国人の技能実習生が妊娠し、強制帰国や中絶を迫られる例が相次いでいる。受け入れ機関側から「恋愛禁止」や「妊娠したら罰金」と宣告されるケースもあり、専門家は「人権上問題だ」と指摘している。

 

 ■「どちらかを選べ」

 「妊娠2カ月なんです」。首都圏の人権団体のシェルターに保護された技能実習生のベトナム人女性(22)は静かに語り始めた。西日本の製紙工場で実習するために来日し、1カ月の事前研修を終えた矢先に妊娠が分かった。

 「中絶するか、ベトナムに強制帰国かのどちらかを選べ」。研修施設の担当者に迫られ、中絶の薬を与えるとも言われた。

 「子供を産みたい。でも日本で働き借金を返したい」と思いつめ、逃げ出した。ベトナム北部の貧しい地域の出身。日本に来たのは「病気の母の治療費で多額の借金があったから」。渡航費の約100万円は祖母が親戚らから借りた。

 来日前に関係を持ったベトナム人男性との子だったが、相手は「自分の子ではない」と否定。女性はカトリック川口教会のベトナム出身のシスター、マリア・レ・ティ・ランさん(55)を頼った。SNSで相談すると、逃げる手はずを全統一労働組合(東京都台東区)と整えてくれた。マリアさんの元にはベトナム人女性からひっきりなしに同様の相談の電話やメールがある。先日も「自殺したい」と32歳の実習生の女性から連絡があった。妊娠し、やはり実習先から帰国を迫られ逃げたという。

 

 ■「恋愛禁止」に署名

 西日本のある研修施設の規則には「異性との恋愛行為は一切禁止」とあり、実習生に署名させている。「男性と女性はお互いの部屋を行き来しないこと」とも書かれている。研修施設での順守事項だが「企業実習に於(お)いてもほぼ同様の規則となるので今から三年間は気を緩めず厳守すること」とある。

 施設の元担当者は「会社は実習生を効率よく働かせたい。妊娠したら生産能力が落ちる。実習生に産休をとらせる会社など聞いたことがない」と理由を話す。

 研修の教職員に配られた「トラブル集&対応策テキスト」には、妊娠した場合(1)出産希望:強制帰国+ペナルティーを科す(2)日本での研修を継続希望:一時帰国し処置をした後再入国――とされ、チケット代は自弁で罰金も科す、とあった。元担当者によると、出国前も「意識改革」と題した研修などで妊娠は禁止と指導しているという。

 日本で亡くなったベトナム人実習生や留学生らを弔っている東京都港区の寺院「日新窟」には、2012年〜今年7月末で101件分の死亡記録があるが24件分は中絶や死産による赤ちゃんのものだ。尼僧ティック・タム・チーさん(40)は「悩んだ末に中絶して、精神的に病んでしまう女性も多い」と話す。

 

 ■専門家「モノとしか見ていない」

 「妊娠、出産、結婚を理由に監理団体や実習実施機関が技能実習生の意思に反し、帰国を強制する行為は違法で、認められるものではない」。実習生の問題が議論された2016年11月の参院法務委員会で、政府はこう答弁している。雇用機会均等法も、事業主は女性労働者に、妊娠や出産を理由に解雇などをしてはいけないと定めている。

 13年には、中国人技能実習生が妊娠を理由に強制帰国させられそうになり流産したとして富山市の会社側を訴えた裁判で、女性側勝訴の判決が出た。だが、妊娠を理由とした強制帰国や中絶例は後を絶たない。

 実習生の実情に詳しい指宿昭一弁護士は「恋愛や妊娠を禁止することは明らかな人権侵害で許されない」。参院で審議中の出入国管理法改正案でも、外国人の新たな在留資格「特定技能1号」は技能実習生と同様、家族帯同が認められていない。指宿氏は「労働者をモノとしか見ていないからだ」と指摘している。

 

 

 

| - | 07:26 | - | - | - | - |
広い視野を持つ新入管法に

以下は11月5日(月)に脱稿した記事である:

 

 

受け入れは14業種

カナダを定住国としている日本人が、近年帰国の度に驚くことの一つが、そこここに働く外国人の増加である。他民族国家であるカナダでは、ヨーロッパ系以外の人々がそこにもここにも住み、働き、生活していることなど何も珍しくない。

 

だが社会環境の違う日本でこの変化を見ると「単一民族国家」などと言われた時代を知っている者には、実に目を見張るものがあり、「ふう〜ん、日本もこうなって来たか!」と新たな傾向をとても嬉しく思うのだ。

 

一般的には東南アジアからの人が多い様に見受けるが、すでに流暢に日本語を話す人もいれば、まだおぼつかない人もいる。

すでにその変化の理由につては広く知られているが、何と言っても少子高齢化の日本に、十分な働き手がいないため外国人に頼るほかないのである。

 

そうした社会の変化は語られて久しいが、にっちもさっちも行かない現状に対し、国もやっと重い腰を上げ、1024日に召集された第4次安倍改造内閣で、今までの入管法の改正案を閣議決定することに決め、今国会での成立を目指していると言う。

 

もちろんまだ出来立ての政策である為あいまいな部分が多いとは言え、これは使い勝手のいい「工作機械」を外国から導入するわけではない。他国から助っ人として「人間」に来て貰うと言うのに、改正案の詳細を見ると幾つもの難しい規定が設けられている。彼らを如何に管理するかに躍起になっているように見えるのだ。

 

受け入れ先は、日本人の女性や高齢者の働き手をもってしても埋めることが出来ない分野で、建設、造船、農業、漁業、介護、外食、ビルクリーニングなど14業種に限られている。

 

「移民政策ではない」と与党は断言し、在留資格の「特定技能」を持つ者を「1号」「2号」の段階に分けている。規制が多少緩い「1号」を見ると、5年の実習技能を終了するか、技能と日本語能力の試験に合格すれば資格を与えられるとしているが、家族の帯同は認めていない。危惧するのはもし既婚者であったら、5年も家族と離れて暮らすのは如何なものかとまず思う。

 

また例えば人手不足が言われて久しい介護の現場で、日本の老人たちとの温かい心の交流が出来たとしても、難しい日本語の試験に合格しなければ在留資格は認められない。

 

それはあたかも「はい、5年間ご苦労さん、もう結構、故国にお帰り下さい」「日本に来たい人は幾らでもいるんだから」と言わんばかりである。

 

長い目で見る必要

 

さてここで、移民先進国カナダの状況をちょっと書いて見よう。

 

日本からカナダに来た戦後移住者は、1973年がピークで約1105人であった。一応何らかの資格があるか、あるいは得意とする技術を持っていることが条件だった。だが時代が時代だけに「タイピスト」等と言うのもその職種に入っていて、規定はとても緩いものだった。

 

Torontoに移住した日本人たちが去年50周年(1967−2017)を祝った

 

また英語も皆無か、しどろもどろの人もかなりいて、夫婦で東京のカナダ大使館での面接に臨んだ際に、移住の理由を「もっとbetter lifeを求めて」と言うところを「I want to have a better wife」と夫が言ってしまったなどの、今思えば笑えるようなエピソードも残っている。

 

記念誌にはジャスティン・トルドー首相からの祝辞も寄せられた

 

しかしそうした人々も、到着後は必要に応じてフリーの英語学校に通い、職業訓練も受けられた。そしてカナダ生活に慣れるに従い、社会の何処かに居場所を見つけ、独身者は結婚し、妻帯者も夫婦で頑張り生活の根をしっかりと張って行ったのである。

 

今はその子供たちが更に結婚したり、ビジネスに邁進したりして「カナダ人」としてこの国の経済発展の一翼を担っている。日本人夫婦の子供で外見は東洋人でも、今もし彼らに「あなたは何人?」と聞いたら恐らく全員が「カナダ人」と答えるだろう。勿論その後に「でも親は日本人」と説明を付けるかもしれない。だがそれは、二つの文化を持つことに誇りを持って言うのであって、彼らは押しも押されぬカナダ人なのだ。


日本とカナダは今年と来年日加修好90周年を祝うまでになっている。

 

言うまでもなく、カナダと日本を単純に比較することなど全く出来ないが、一国から人を受け入れるなら、短絡的に物事を処理せずくれぐれも血の通った政策を遂行して欲しいと思う。

 

3年後には制度を見直すと言うが、それ迄には曖昧さのないしっかりとした「多文化主義の芽」が日本社会に育っていることを期待したい。

 

 

 

 

〜*〜*〜

以下は11月19日(月)に追記した:

 

その後国会では継続した審議が行われたが、それから2週間以上経った今も、初年度最大4800人、5年間で34万人とする試算を明らかにしただけで以下の詳細などはない:

➀日本語教育や生活支援の問題 

➁医療や年金などの社会保障制度の問題

 

繰り返すが、この政策は「使い勝手の良い器械」を外国から導入するのではない。34万もの人が来て日本人と共に働くのである。しっかりとした規制と秩序の元に運用して行かなければ、将来このずさんなやり方が大きな問題になることは目に見えている。

 

何よりも外国からの人々が、「日本に来てよかった」と思って貰える政策であって欲しいと心から願う。

 

 

 

 

 

 

| - | 06:33 | - | - | - | - |
人としての礼節

 

 

 

おもてなし・気配り」という言葉に象徴されるように、日本人は相手の心をそれとなく読みとり、丁寧なお付き合いすることに掛けては、世界のどの国の人々よりも長けている、と思う。と言うより、思いたいと最近しきりに考える

 

私は物書きと言う仕事柄、見ず知らずの人と接することがいまだに多い。日本からいらした方からお話を伺うとなれば、相手に関する最新情報は欠かせないが、有難いことにGoogleを利用すれば大体のサーチは出来る。

 

身内の話に敬語

そんな折り、各界の有名人などがインタビューされているプログラムに出会ったりして驚くのは、身内の話に敬語を使ってしまう若い人が多いことだ。「えっ?!」と耳を疑うが、本人がふと照れたような仕草をするのはいい方で、全く気が付かないご仁も多い。

 

日本語学習で一番難しいのは敬語と言うのは良く知られているが、こちらに暮らす日本人の中にも敬語はおろか「日本語が駄目になった」とおっしゃる方がかなりいる。そんな人の言い訳は「日本人との付き合いが少ないので・・・」である。

 

「自分はカナダ社会にどっぷりと浸かっているから」と言いたげだが、では英語がバッチリかと言えばそれも頼りないこともある。一般的に言って英語がしっかりした人は、日本語の維持も怠りないと見受ける。

 

それはまたメールのやり取りでも同じで、日本からの移住者だからと日本語でメールを出しても返事のない人の多い事!そんなお歳と見えない方でも「日本語の文章がもう書けない・・・」とか。解読できるなら英語で返事を下さればいいのにと思うが、それも億劫のようだ。

 

お礼のメール

最近当地の大学で行われた某コンフェレンスに、東京にある二つの超有名大学から招聘された教授夫妻が来られ、研究課題を発表された。

 

お話しをするとカナダの日系移民史は全くご存知ないとのこと。「それはならじ!」と早速訳本『希望の国カナダ、夢に懸け海を渡った移民たち』を贈呈し、コンフェレンスは続行していたが、2時間程なら抜けられると言う日を選び、昔日系移民と縁のあった場所を車でご案内した。

 

しかし連れ回されただけでは、後から訳本を読んで頂いても分かるまいと思い、廻るスケジュールに沿って本の何ページを見れば詳細が書かれているかをまとめてお渡しもした。

 

すでに日本に帰られて一ヶ月余り。どちらの教授からもお礼のメール一本送られて来ない。ドライブ終了後に“日本手拭い” を一枚頂き、それが唯一お連れした証となった。

 

もとより美辞麗句の謝辞など期待しない。だが帰国してから一言お礼のメールを出すのが、洋の東西を問わず基本的な礼儀であり、カナダ人でもきちんとした人はやっている。

 

超有名な大学教授夫妻でさえも事ほど左様なら、そこから巣立つ最近の若者に、敬語だ、礼儀だ、を求めるのは土台無理と言うものかも知れない。

 

心に冷風が流れる・・・。

 

もう一つ腑に落ちないのは、日本に進出している外国の出先機関に勤める日本人の「暖簾に腕押し」の対応である。窓口の方に丁寧なメールを何度も送り、外国人の上司にも礼を尽くした英語のプロポーザルを送ってもナシのツブテ。業を煮やし国際電話をすると、電話を持ってお辞儀をしているのが分かるほど「すみません」「ゴメンなさい」を連発。しかしその後もまた何の連絡もない。

 

ただ「YesNo」のご返事を待っているに過ぎないのに・・・。もちろん日本人ばかりではなく、外国から派遣されている上司が怠慢なこともありうるが・・・。

 

これ等はほんの一例に過ぎないが、「おもてなし・気配り」が言葉だけ先行し、きちんとしたメール一本書くことが出来ない日本人、また「おもてなし・気配り」を逆手に取って、日本人を甘く見ているとしか思えない外国からのビジネスピープル・・・。

 

心に冷風が流れる・・・。

 

       

           過ぎ行く夏・・・、ベランダの花を水に浮かべて名残りを惜しむ

                                               

 

 

 

 

 

 

| - | 00:44 | - | - | - | - |
大坂なおみという逸材

 

私はテニスのことは全く分からない。毎年世界の何処でどれ程の試合が行なわれ、どんな有名な選手がいて、プレーに如何なるルールがあるかなどなど・・・完全に無知である。

 

だが今月8日に行われた全米オープン女子シングルで日本の大坂なおみと言う選手が優勝し、日本人として初めて4大大会制覇の偉業をなし遂げたことは、メディアの過熱ぶりから見て大変な事なのだと言うことは理解出来た。

 

加えて試合に臨む彼女の姿をネットで初めて見た時、その容姿が錦織圭選手のように東洋人ではないのも知った。今どきは日本人と黒人とのハーフなど珍しくないのを十分に知っていたから驚くことはなかった。だがこの偉業を成し遂げた若い女性は、一体どんなバックグランドを持っているのかと興味をそそられた。

 

すでに広く知られているが、彼女は1997106日大阪生まれで、父親はハイチ系アメリカ人、母親は北海道出身の日本女性。3歳でアメリカに渡り、父親の特訓を受けてテニス選手になるべくまっしぐらの人生を歩いて来た。となればその態度はアメリカ人そのものであることに不思議はないし、半分日本人とは言え日本語がしどろもどろなのも頷ける。

 

去年ノーベル文学賞を受賞した英国在住のカズオ・イシグロ氏でさえ、日本人の両親のもとで育ち言葉の世界に生きているにもかかわらず「日本語は渡英した5歳当時と変わらない」と言うから、なおみ選手の日本語を云々するのは酷というものだろう。

 

とは言え、日本の文化的背景も持つことで試合後に「あのような試合の展開になり申し訳なく思う」とか、対戦相手のセリーナ・ウィリアムス選手に「試合をしてくれたありがとう」と礼儀正しくお辞儀をしたりの態度を見ると、「ああ、やはり彼女は日本的で礼儀正しい子だな」と思ってしまう。こうしたことは、付け焼刃で出来るものではなく日々の暮らしの中で培われていくものだからだ。

 

アイデンティティ

 

テニスと言う目的があったにしろ、何よりもアメリカで伸び伸びと育ったことが成功の秘訣ではなかろうかと私は強く思う。だが母親の影響だろうか、ふとした瞬間に日本人の物腰になってしまう。今回はそれをアメリカでは好意的に受け取られたようだ。

 

ふと思い出すのは、去年の国際女性デー(38日)を前にインタビューされた日本で活躍するイラン出身のタレント、サヘル・ローズさんの「日本は外見でイロモノ扱いされる」との言葉だ。流暢な日本語が話せても、外見が違うことでいまだに差別の対象になってしまうのが日本社会の一面なのだ。

 

現在外国人人口が過去最大の250万人(18年1月現在)近いと言われ、日本人の労働力不足を外国人が補っているにも関わらず、外国人との共生にいまだに慣れていない日本人は多い。

 

そんな社会を反映してか、日本へ到着後すぐの記者会見では「外国では大坂さんの活躍や存在が古い日本人像を見直すきっかけになったと報道されているが、自身はアイデンティティを含めその辺をどのように受け止めているか」と言った質問が出る。なおみ選手は意味が分からず、また通訳の補足が用を得なかったこともあり、尻切れトンボで終わってしまった。

 

二重国籍

 

大きな夢はオリンピックでの優勝というが、その時彼女は23歳。現行の日本の国籍法に従えば重国籍が認められる22歳を過ぎた年齢になる。

 

一説に寄れば、スポーツ界には「その種目の国籍」と言うのがあるとのことで、彼女の場合は日本を「テニス国籍」とすることが可能らしい。原則としてその国の国籍を選んだ時点で日本のパスポートがあれば、その後喪失してもそのままで良いことになるとか。

 

一般人から見ればこれは極めて不公平と言わざるをえない。

 

だが将来もし何らかの理由でテニス選手でなくなったら、果たして彼女はどちらを選択するのか。あるいは、日本はどちらか一つを選べと迫るのだろうか。

 

興味の湧くところである。

 

 

 

 

 

 

| - | 08:21 | - | - | - | - |
人の痛みの分かる人

ビクトリアのゲイパレード

 

ビクトリアの今夏のゲイパレードは、7月の第二日曜日に行われた。気温は21℃で快晴、海からのそよ風も爽やかでまたとないパレード日和であった。

 

毎年一番の焦点となるスポットは、州議事堂前の一角である。

 

州議事堂をバックに

 

新聞社や実況放送をするラジオ局などの報道陣が集まっているため、パレードの参加者たちはこの辺りで一段と派手なジェスチャアと奇声を上げ周囲を湧かせる。

 

メディアも大忙し

 

ラジオの実況放送で活躍するドラッグクイーン

 

とは言え、北米最大とも言われるトロントのゲイパレードを何度も取材してきた筆者には、やはり当地のはこじんまりとしており、度肝を抜かれるような仮装をする人もなく、何となく可愛らしい域を出ていないように見受けられる。

 

 

それにしても年一度のこの祭典は今でこそ市民権を得ているし、カナダは世界で3番目に同性婚を認めた国であるが、ゲイであることが知られただけで投獄された半世紀前(1967年当時)とは何と言う違いだろう。

 

だがそれでは今カナダのゲイたちは、全く問題なく日常生活を送っているかと言えば「NO」である。それは居住する場所、宗教上の理由、単に毛嫌いなど、理由はいろいろあるが嫌悪感を露にする人も少なくないのが現状である。

 

カップルで仲良くパレードを見る

 

拙著「カナダのセクシュアルマイノリティたち、人権を求め続けて」

 

かく言う私も2005年に表記の著書を出版するまで、例えば彼らが求めていた「ゲイの権利」等というものにはまるっきり無知であった。だが未知のものを知りたいと言う思いから、書物を読み、トロントはもとより、NYにも又世界で初めて同性婚を承認したオランダにも行き無数の人々をインタビューした。その経過をまとめたのがこの一冊である。

 

 

これは私に取って深くて幅の広い学びの経験であったが、知れば知るほどこの程度の理解でゲイだヘテロだを語るのは口幅ったいと思うに至ったのも事実であった。

 

どの人も心の襞を一枚一枚剥がすように思いを語ってくれたのだが、その中には私の義弟も含まれていた。相手の立場を細かく配慮する思いやりの深い彼も、また長い心の旅路の末にカミングアウトした一人であった。一度は結婚し子供も3人いる中で、やはり自分の心に正直にと離婚に至ったのである。

 

フェアウェル・パーティーでの義弟とパートナー

 

彼は、キリスト教の中ではいち早くゲイを承認したUnited Churchの牧師であったが、6月にリタイアして、パートナーと共にシニアライフ入った。若い頃は彼も例外なくいじめに遭い心の葛藤を経験しているせいか、他者を思う優しい人柄が信者たちから絶大な信頼を得ていた。そして最初の結婚で得た子供3 人と孫3人は、今かけがいのない喜びと言う。

 

居並ぶ信者たちに惜しまれて最後の礼拝を終えた後、多くのボランティアが協力して開いたフェアウェル・パーティーは見事なまでに明るく楽しいものだあった。

 

別れを惜しむ信者たち

 

一橋大の学生の自殺

 

さて日本はと見ると、徐々にではあるが、この数年の間に事態が変化していることが分かる。中でも「性同一性障害」に対する人々の寛容さと認識は大きく、先日はお茶の水女子大が20年度からトランスジェンダーの学生を受け入れることを決定した。

 

だが一方、やはり最近だが「ゲイだとばらされ転落死」という記事がネットに載った。「同性愛者であること」を、同級生に同意なく口外され苦しんでいた一橋大の法科大学院生が、20158月学校から飛び降り自殺した事件の引き続きを報じたものだ。

 

すでに3年前のことだが、亡くなった学生(当時25)の遺族、口外した男性、大学も絡む複雑な事件として裁判沙汰になったのである。詳細はネットを見れば分かるが、ゲイであるために消えた一つの命。親の思いは如何ばかりか、考えるほどに心が痛む。

 

無知の極みの杉田水脈衆議院議員

 

 

今は日本ばかりではなく世界の多くのメディアも注目し、醜聞をまき散らした杉田水脈衆議院議員の「『LGBT』支援の度が過ぎる」の記事には、心底呆れてものも言えない。カナダでも報道されたが、同性婚をして子を産まない限り日本社会では人間として扱われないのか?!

 

 

麻生副総理の「法律にセクハラ罪と言うのはない」という放言と共に、日本の国会議員の勉強不足の無知を嫌が上にも知ることとなった。

 

実にお寒い限りである。

 

 

 

 

| - | 13:20 | - | - | - | - |
ハワイの「夏の家(Natsu no Ya Tea House)」

 

日本からアメリカへ渡った移民の歴史が、ハワイから始まった事は広く知られている。今年はその第一歩を記た人々がホノルルに降り立ってから150年目に当たる。

 

そこで横浜にある公益財団法人 海外日系人協会(The Association of Nikkei & Japanese Abroad)が、「海外日系人大会in Hawaii」と称し、ワイキキのホテルで二日間に渡る大きなコンベンションを開催した。

 

毎年この協会は、世界各地に居住する日本人、日系人、またはその関係者たちを集めて東京で大会を開催する。

 

今年で59回目の大会であるが、どの参加者にとっても日本の何処かにルーツを持つ人々が、れぞれに居住する国でどのように活躍しているかを知る又とないチャンスであり、足繁く参加する人たちには旧交を温める場所でもある。

 

筆者も以前に二回ほど参加したが、今回は特に興味深い集いであった。

 

 

日本の歴史を紐解くと、幕末の開国以来外国に出かけた移民たちは、東南アジア、南洋諸島、南米とさまざまである。

 

北米の場合は、ハワイへ18685月に3年契約でサトウキビ耕地労働者として150人程が横浜港を出発したのが最初である。その年の日本国内は、政治的に大きな変化を遂げ「明治元年」と改称されたため、彼らを「元年者(がんねんもの)」と称した。

 

色々な理由で、彼らは明治政府からの旅券の発行もないまま出航したのだが、外国で一旗揚げようと思った人がかなりいたと言われている。

 

しかし到着したハワイでの労働は過酷で、怠けていると白人のルナ(小頭)に鞭で叩かれ、多少の病気では休むことも出来ないと言う奴隷のような生活であった。

 

だがそんな状況を何とか乗り越え、その後明治政府からの協力もあり3年の契約後もハワイに定住したりアメリカ本土に移動した人々は90人近くいたという。

 

150年前と言えばまだそれほど昔とは言い難いが、まさにその元年者たちの努力が今日の日系アメリカ人の礎を築いたのである。

 

マキキ日本人墓地の移民慰霊碑

 

すでに8世までに根を張った彼らは、現在ハワイにおいて政治経済の中心をなす重要なエスニックグループとして、大いなる存在感を示している。

 

これはどの国に移住した人々を見ても同じことだが、事業に成功した者もいれば、失敗して尾羽打ち枯らした者が出るのは人の世の常である。

 

加えて、例え故国を捨てた覚悟ではあっても、自出の国が世界情勢の大きなうねりの中でどの様な立ち位置にあるかによって、移民たちの生活が左右されるのを避けることは出来ない。

 

それが日本人に取っては、1942127日のハワイの真珠湾攻撃によって開始された第二次世界大戦という悲劇であった。

 

この一撃によって、それまで築き上げてきた努力が水泡に帰したのは日系アメリカ人ばかりではなく、カナダの西海岸に住んでいた移民たちも同じであった。

 

今では日本軍が真珠湾を第一の攻撃地として選ん経緯などはすべて解明されているが、中でも非常に興味深いのは、開戦に導くためにハワイにスパイ活動をするための外交官を送っていたことだ。

 

彼は「森村」と言う偽名を使い、ダウンタウンから山の手に登っていく途中にある当時「春潮楼」と呼ばれた料亭に通いつめた。

 

スパイ活動をした現「夏の家」の窓からは遠くホノルルの町が見渡せる

 

ここは真珠湾を一望できるため間諜活動には打ってつけで、アメリカの戦艦が停泊していた湾内のフォード島での動きを望遠鏡で観察していたのである。

 

昔は風呂も完備された料亭だったとかで、彼は当時のお金で月700ドルもを浪費し、また自身の身を四十七士の赤穂浪士「大石内蔵助」に例えていたとも言われる。

 

女将は当時のままの畳の部屋で来客に歴史を語る

 

だがそうとは知らない当時の日系人たちは、彼と親しく付き合い知己を得たようだが、その人物が日本に送り続けた情報によって大戦は勃発したのである。

 

後に日系人たちがどれ程驚いたかは想像に難くないが、同胞を裏切った森村の境地はどんなものであたろうか。

 

真珠湾のUSSアリゾナ記念館の展示室には森村のことがきちんと展示されている

 

紆余曲折の後、戦後は「夏の家(Natunoya)」と改名されたが、森村がスパイ活動をしていた畳の部屋は今も健在でレストランとして営業を続けている。

 

今回イベントの一環である自由参加の市内観光は、ここでのランチが用意されていたのは思い出深かった。

 

いつの世も国を司る指揮官たちの、傲慢と誤った策略から生まれる悲劇は計り知れない。

 

 

 

 

 

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聖人フランシスコ・ザビエルの右腕

 

カナダ国内では一番暖かい地域とされるビクトリアでも、一月の寒さはそれなりに身に染みる。そんなある週末の土曜日、市内の某カトリック教会に「フランシスコ・ザビエルの右腕」が展示されるとのニュースが流れた。

 

「えっ、あのフランシスコ・ザビエル?えっ、あの聖人の右手?」と私は驚愕した。

 

教会で配られたパンフレット。若かりし頃はこんなにハンサムだった?!

 

日本で教育を受けた者なら、必ずや頭のてっぺんが丸ぁるく禿げたあの聖人の絵を歴史の教科書で見たことだろう。ちなみに、こうした禿げ方を「ザビエル禿」と呼ぶとか? 或いは、あれは「トンスーラ」という髪型で、真ん中を剃っていたと言う説もあり、髪を生やそうと思えば生えたかもとか?

 

 

彼はスペイン生まれの宣教師で、最初インドやマラッカで伝道生活を送り、そこで知り合ったヤジロウと呼ばれる人と共に、彼の故郷・鹿児島に1500年半ばに渡来した

 

布教活動に心血を注いだものの、幾多の紆余曲折があり多くの困難を乗り越え越えなければならなかった。それでも京にまで上ったが室町幕府は混乱期の真っただ中。更には仏教関係者の根強い反対もあり容易なものではなかった。

 

結局二年ほどの日本滞在の後、種子島などを経て次の宣教地である中国の上川島に向かったが入境はならず、その地で病死(1552年)した・・・。と、まあこの位は歴史の時間に習い知っている人は多いだろう。

 

だが46歳で亡くなった後に、その遺体が何処に安置されているのかは一般には余り知られていない。カトリック本山のバチカンと思うのが普通だろうが、調べると体の部位が世界の色々な場所に分散して保存されていると言う。

 

そんな体の一部である「右腕」がたった一日とは言え、この小さなビクトリアの町の教会に展示されるとなれば、好奇心がそそられるのは当然だ。

 

当日は教会を取り巻く長い行列を予想していたが、三々五々人々は集まって来ているものの、呆気に取られるほど混乱はなく、また写真を撮ることも出来た。

 

教会の聖壇に飾られた右腕の遠景

 

配られた冊子を見ると、彼は1622年にローマ教皇によって「聖人」に認定されたとある。生前彼はこの右腕で10万人以上に洗礼を授け、死後半世紀以上経った1614年に切断された時には鮮血が流れ出たと伝えられている。

 

右腕のクローズアップ

 

ところで名前の前に付く「ST=聖人」を得るのは、どんな宗教人なのだろうか。そう簡単には貰えない称号であることは分かるが、一般には次のようなステップを踏むと言う。

 

まず死後5年以上が経っていること、生前に真実「神の僕」であったことが証明されること、徳を積み重ねていた事が承認されること、奇跡を12回起こした事実があること、等などが認められると聖人表に加えられるのだそうだ。

 

ちなみに97年に亡くなった「スラムの聖女」と呼ばれたマザーー・テレサは、死後19年で聖人の称号を得た。普通は少なくとも数十年はかかるため多くの批判もあると言う。

 

 

今回私が何を持ってこの方面の知識を得たいと思ったかは、自身が幼児洗礼を受けた「元カトリック信者」であることによるが、加えて「長崎と天草地方(熊本)の潜伏キリシタン関連遺産」が、先日ユネスコの世界文化遺産に挑むことになったとのニュースを聞いたからだ。テーマは当時の禁教時代を生き抜いたキリスト教の信仰と言う。

 

しかし文化遺産に指定されるのは結構なことだが、これによって多くの観光客が訪れ、地域で静かに信仰を守る人々の生活が乱されることのないよう切に願いたい。

 

何しろ日本はキリスト教の本来の精神とは全く関係なく、クリスマスともなれば人々は町に流れる♬ジングルベル♬の曲に乗ってプレゼント買いに奔走し、若者は高級レストランでの食事にうつつを抜かし、お父さん達は24日の聖夜には帰宅途中に苺のショートケーキを買って家路に急ぐのが慣例となっているのだ。

 

宗教観とは無縁のこんな現象がまかり通る不思議な国‐それが日本なのだから。

 

 

 

 

 

 

| - | 07:47 | - | - | - | - |
エポックメーキングの年

すでに去年の出来事になってしまったが、2017年はカナダに取って大きなエポックメーキングの年であった。建国150年目という記念すべき年で、周知の通り各地で様々な行事が展開された。

 

 

逆算すると1867年がその一年目となるわけである。それはNAJC40年前に定めた日本からの移民一号とされる永野万蔵が、カナダに足を踏み入れた1877年よりも10年前のことになる。

 

この「永野万蔵パイオニア説」には確たる証拠がないと言われるものの、その年辺りに日本人移民がビクトリア周辺に来ていたことは確かである。となれば去年は大体140年目であったわけだ。

 

加えて第二次世界大戦勃発で、カナダ政府が日系移民をロッキー山脈の麓に強制収容してから75周年目。戦後移住者が来加してから50周年目で、トロントでもバンクーバーでも祝賀会が催された。

 

では2018年はどうかと言えば、これまた大きな記念の年で「日加外交関係樹立90周年」という節目にあたるのだ。だがここで注意しなければならないのは、90周年には二つの考え方があることだ。

 

確かにカナダが日本に公館を設置したのは90年前であるが、日本がカナダに公館を設けたのは一年後であった。これを考えると来年が90周年となるようだ。

 

だがオタワの日本大使館のブログには以下のようなロゴをすでに掲載されている。

カナダと日本の国旗の象徴の色である赤と白を基調にして、日の丸と楓を富士山とロッキー山脈の中に埋め込み、スッキリしたデザインになっている。

 

 

129日には訪日中のジョン・ホーガンBC州首相が、岡本光成外務大臣政務官を表敬訪問し、貿易、青少年交流など幅広い分野に渡っての意見交換をした。その中にはBC州で活動する在留邦人、日系人に対しての支援を引き続き行って欲しいと要請もしている。これに対しホーガン首相は「喜んで支援したい」と返答したと言う。

 

ジョン・ホーガンカナダBC州首相と岡本三成外務大臣政務官(中央二人)

 

では具体的にどのようなことが支援されるのかは、一般人には今一つ定かでない。しかしこの90年の間には、前記のように開戦と同時に日系人の強制収容が行われた。隣国のお騒がせ大統領の例を見るまでもなく、どの国においても一国の対外政策と言うのは、一歩間違えば思わぬ方向に動いてしまう。今後とも日加間に同じような悲劇が起こらないことを切に願いたい。

 

さてカナダではこのように両国間の絆を強める年になるが、米国に目を向ければ、折りも折り日本人移民が初めてハワイに渡ってから150年目になると言う。炎天下のサトウキビ畑での過酷な労働は、想像を絶したと語り継がれている。

 

 

一方本土の日本人移民は、カナダと同様に強制収容されたが、そに伴う政府の措置はカナダの方がより厳しかったとか。しかし米国への移民たちも排日の波で辛苦をなめたのは同じである。

 

最近2011年に発行されたカルフォルニア州の南加庭園業連盟からの小冊子「北米川柳道しるべ」「ガーデナー風雲録」を入手した。ここには移民たちが詠んだ戦前からの川柳が見事にまとめられており、編者であるロスアンゼルス在住の関三脚氏(www.sunnyseki.com)の努力を称賛したい。

 

 

手先が器用なことと土地柄が相まって、移民たちの仕事はガーデナー(庭師)が主流を占め、従事していた人々の喜怒哀楽が連綿と綴られている。

 

幾つかを拾って見ると:

 

移民たちが次々と抑圧されることに手をこまねく日々−

   *排日に薬ないかと腕を組み

 

当時の結婚は写真婚が主。移民の男性も受ける日本の女性も会って見れば−

   *待ちに待ち見れば写真と大違い

 

アメリカに行けば金持ちになると思っている日本の家族に−

   *こちらにも金の成る木は無いと書き

 

漁業に従事した人もいたようで−

  *波までがジャップジャップと船に寄せ

 

苦労の末に子供に教育を受けさせても−

  *秀才も雇ってくれぬ肌の色

 

とは言え、生来が我慢強い日本人。米国に行った移民も、カナダに来た移民も歯を食いしばって生き抜いた。

 

ビクトリアにも残る幾つかの日系人墓地もしかりであるが、心に沁みる一句は−

  *無縁塚風に吹かれて母国向き

 

先日のアカデミー賞のメーキャップ&ヘアスタイリング部門で受賞した辻一弘氏の快挙は、才能と努力はもとより、やはり手先の器用さが物を言ったのであろう。

 

鬼籍に入った戦前の移民たちもきっと大きな拍手を送っているに違いない。

 

 

 

 

 

| - | 07:48 | - | - | - | - |
ノーベル平和賞受賞に寄せて

 

2015年ビクトリアで開催された全カナダ日系人協会

National Association of Japanese Candaians-NAJC)にて

 

 

                                                                                                                                     2018年一月某日

サーロー節子様 

 

お久し振りです!

 

まずは昨年暮れの国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(I Can)のノーベル平和賞の受賞を心からお喜び申し上げます。

 

メディアを通してお姿を拝見する限りでは、お元気なご様子で何よりです。しかし、受賞以来どれ程ご多忙な日々をお送りに

なっていらっしゃるかを想像するにつけ、どうぞお体を十分においとい頂きたいと心より願っております。

 

思い起こすと、2015年度全カナダ日系人協会(National Association of Japanese Candaians-NAJC)のコンフェレンスが

行われたビクトリアのホテルロビーで、バッタリお目に掛かたのがすでに2年半以上も前のことになります。その時はお体の

不調を多少嘆きながらも、杖を片手に変わらずに精力的に活動しておられるのを目のあたりにして、とても感銘を受けたのを

覚えております。

 

私が問わず語りに一年程前(当時)にトロントから西海岸に夫と共に国内移住し、ビクトリアに居を構えたことをお伝えしま

した。それに対し「ここの生活は如何ですか」とお聞き下さり、私は「トロントに比べ冬がとても暖かいのは嬉しいです」と

日常生活を語った後に、「でも物書きとして、ここならではの何かを発見したいと思っている最中です」と申し上げました。

 

そして「トロントに比べての一番の違いは、当地に残る日系カナダ人の歴史の深さです。地理的に見て日本からの移民たちが

まずここに一歩を印したのは分かるのですが、その史跡が140年も経た今もそこここに残っているのにとても驚いています」

ともお伝えしました。

 

加えて「ここにお住いのある白人の歴史家ご夫妻が書いた日系カナダ史『Gateway to Promise』の翻訳を考えているのです」

等と、まだ漠然とした夢でしかなかった夢を、ふと口に出してしまったことに自分でも驚きました。

 

その一歩を何処から始めるか、どうやって始めるか、まだアウトラインすら出来ていないのに軽率にも口にしてしまった自分

を反省しました。

 

でもそれが引き金になって、まずは資金の調達のために、会場でNAJC会長に「今こんな翻訳を考えているのですがグラントを

貰えないでしょうか」と相談を持ち掛けたのです。

 

そうなんです、全てはそこから始まりました。

 

有難いことにその約半年後にはNAJCからグラントを頂き、またその他多くの公共機関や友人知人たちからの甚大なるご協力

の元に、二年後の昨夏20178月に440頁の日系カナダ史の訳本『希望の国カナダ・・・、夢に懸け、海を渡った移民たち』

を上梓しました。

 

ここにご送付した一冊をご覧頂ければお分かりのように、この分厚い翻訳本はまるで西海岸を中心とした日系カナダ人史の

百科事典のようです。くれぐれも440 頁もの本を一気にお読みになるなどのご無理はなさらないで下さいませ。

 

まずは目次だけをじっくりとご覧頂き、将来関連の事柄で詳細を知りになりたいことが起こった時に、何度も紐解いて頂け

ればと思います。

 

しかしその時に16人の翻訳者と、その他諸々の協力を申し出て下さった方々のチームワークによって成し遂げられた一冊で

あることを思い出して頂ければ、これに勝る喜びはありません。

私の方のことばかり書いてしまったことお許しください。ただあの時の節子さんとの会話が、私の背中を押して下さったこと

をお伝えしたかったのです。

 

そしてもう一つ、ビクトリアでお目に掛かった時の心に残る思い出があります。それはコンフェレンス後の会食で、世界平和

を願うご自分の活動に触れて力強いスピーチをなさった後、満場の拍手と共に贈られたファーストネーションの置物を手にな

さいました。

 

 

カナダに住む日系人として私たちがどれ程誇りに思っているかを感じて頂いた瞬間だったと思います。

 

「I Can」のベアトリクス・フィン事務総長と

 

その時の私はまだ詳細は知らなかったのですが、すでにノーベル平和賞云々が話題に上っていたのをふと思い出し、急遽MC

にその旨を伝えました。ざわざわした会場ではありましたが、彼女が一言言及してくれたことが二年後に現実のものとなった

のですね。

 


事務総長と活動家たち

 

「核兵器は絶対悪」ではあっても裏に多くの思惑が絡む核廃絶問題は、一朝一夕に片づけられません。まだこれからも長い

道のりを歩かなければならないことと思いますが、どうぞお体をご留意なさり末永くご活躍下さるよう心よりお祈り申し上

げております。

 

                                                      

 

    サンダース宮松敬子

   BC州 ビクトリア市にて 

                                   

 

 

その後:

 

三月に入って間もなく、サーロー節子さんから拙著をお送りしたことに対して感謝のお電話を頂いた。

ノーベル平和賞のイベント以来、公私に渡り超多忙な毎日とのこと。想像に余りあるものの、何よりもお体をご自愛頂く

よう切に願っている。

 

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