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YVR 島から見たり聴いたり

トロント生活40余年の後に西海岸
ブリティッシュ・コロンビア州の州都
ビクトリア市に国内移住。
新たな街からの生のニュースを
バンクーバー発行の日本語誌
「バンクーバー新報」に2017年より新連載。
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ハワイの「夏の家(Natsu no Ya Tea House)」

 

日本からアメリカへ渡った移民の歴史が、ハワイから始まった事は広く知られている。今年はその第一歩を記た人々がホノルルに降り立ってから150年目に当たる。

 

そこで横浜にある公益財団法人 海外日系人協会(The Association of Nikkei & Japanese Abroad)が、「海外日系人大会in Hawaii」と称し、ワイキキのホテルで二日間に渡る大きなコンベンションを開催した。

 

毎年この協会は、世界各地に居住する日本人、日系人、またはその関係者たちを集めて東京で大会を開催する。

 

今年で59回目の大会であるが、どの参加者にとっても日本の何処かにルーツを持つ人々が、れぞれに居住する国でどのように活躍しているかを知る又とないチャンスであり、足繁く参加する人たちには旧交を温める場所でもある。

 

筆者も以前に二回ほど参加したが、今回は特に興味深い集いであった。

 

 

日本の歴史を紐解くと、幕末の開国以来外国に出かけた移民たちは、東南アジア、南洋諸島、南米とさまざまである。

 

北米の場合は、ハワイへ18685月に3年契約でサトウキビ耕地労働者として150人程が横浜港を出発したのが最初である。その年の日本国内は、政治的に大きな変化を遂げ「明治元年」と改称されたため、彼らを「元年者(がんねんもの)」と称した。

 

色々な理由で、彼らは明治政府からの旅券の発行もないまま出航したのだが、外国で一旗揚げようと思った人がかなりいたと言われている。

 

しかし到着したハワイでの労働は過酷で、怠けていると白人のルナ(小頭)に鞭で叩かれ、多少の病気では休むことも出来ないと言う奴隷のような生活であった。

 

だがそんな状況を何とか乗り越え、その後明治政府からの協力もあり3年の契約後もハワイに定住したりアメリカ本土に移動した人々は90人近くいたという。

 

150年前と言えばまだそれほど昔とは言い難いが、まさにその元年者たちの努力が今日の日系アメリカ人の礎を築いたのである。

 

マキキ日本人墓地の移民慰霊碑

 

すでに8世までに根を張った彼らは、現在ハワイにおいて政治経済の中心をなす重要なエスニックグループとして、大いなる存在感を示している。

 

これはどの国に移住した人々を見ても同じことだが、事業に成功した者もいれば、失敗して尾羽打ち枯らした者が出るのは人の世の常である。

 

加えて、例え故国を捨てた覚悟ではあっても、自出の国が世界情勢の大きなうねりの中でどの様な立ち位置にあるかによって、移民たちの生活が左右されるのを避けることは出来ない。

 

それが日本人に取っては、1942127日のハワイの真珠湾攻撃によって開始された第二次世界大戦という悲劇であった。

 

この一撃によって、それまで築き上げてきた努力が水泡に帰したのは日系アメリカ人ばかりではなく、カナダの西海岸に住んでいた移民たちも同じであった。

 

今では日本軍が真珠湾を第一の攻撃地として選ん経緯などはすべて解明されているが、中でも非常に興味深いのは、開戦に導くためにハワイにスパイ活動をするための外交官を送っていたことだ。

 

彼は「森村」と言う偽名を使い、ダウンタウンから山の手に登っていく途中にある当時「春潮楼」と呼ばれた料亭に通いつめた。

 

スパイ活動をした現「夏の家」の窓からは遠くホノルルの町が見渡せる

 

ここは真珠湾を一望できるため間諜活動には打ってつけで、アメリカの戦艦が停泊していた湾内のフォード島での動きを望遠鏡で観察していたのである。

 

昔は風呂も完備された料亭だったとかで、彼は当時のお金で月700ドルもを浪費し、また自身の身を四十七士の赤穂浪士「大石内蔵助」に例えていたとも言われる。

 

女将は当時のままの畳の部屋で来客に歴史を語る

 

だがそうとは知らない当時の日系人たちは、彼と親しく付き合い知己を得たようだが、その人物が日本に送り続けた情報によって大戦は勃発したのである。

 

後に日系人たちがどれ程驚いたかは想像に難くないが、同胞を裏切った森村の境地はどんなものであたろうか。

 

真珠湾のUSSアリゾナ記念館の展示室には森村のことがきちんと展示されている

 

紆余曲折の後、戦後は「夏の家(Natunoya)」と改名されたが、森村がスパイ活動をしていた畳の部屋は今も健在でレストランとして営業を続けている。

 

今回イベントの一環である自由参加の市内観光は、ここでのランチが用意されていたのは思い出深かった。

 

いつの世も国を司る指揮官たちの、傲慢と誤った策略から生まれる悲劇は計り知れない。

 

 

 

 

 

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