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バンクーバー島から見たり聴いたり

トロント生活40余年の後に西海岸
ブリティッシュ・コロンビア州の首都
ビクトリア市に国内移住。
新たな街からの生のニュースを
バンクーバー発行の日本語誌
「バンクーバー新報」に2017年より新連載。
人の痛みの分かる人

ビクトリアのゲイパレード

 

ビクトリアの今夏のゲイパレードは、7月の第二日曜日に行われた。気温は21℃で快晴、海からのそよ風も爽やかでまたとないパレード日和であった。

 

毎年一番の焦点となるスポットは、州議事堂前の一角である。

 

州議事堂をバックに

 

新聞社や実況放送をするラジオ局などの報道陣が集まっているため、パレードの参加者たちはこの辺りで一段と派手なジェスチャアと奇声を上げ周囲を湧かせる。

 

メディアも大忙し

 

ラジオの実況放送で活躍するドラッグクイーン

 

とは言え、北米最大とも言われるトロントのゲイパレードを何度も取材してきた筆者には、やはり当地のはこじんまりとしており、度肝を抜かれるような仮装をする人もなく、何となく可愛らしい域を出ていないように見受けられる。

 

 

それにしても年一度のこの祭典は今でこそ市民権を得ているし、カナダは世界で3番目に同性婚を認めた国であるが、ゲイであることが知られただけで投獄された半世紀前(1967年当時)とは何と言う違いだろう。

 

だがそれでは今カナダのゲイたちは、全く問題なく日常生活を送っているかと言えば「NO」である。それは居住する場所、宗教上の理由、単に毛嫌いなど、理由はいろいろあるが嫌悪感を露にする人も少なくないのが現状である。

 

カップルで仲良くパレードを見る

 

拙著「カナダのセクシュアルマイノリティたち、人権を求め続けて」

 

かく言う私も2005年に表記の著書を出版するまで、例えば彼らが求めていた「ゲイの権利」等というものにはまるっきり無知であった。だが未知のものを知りたいと言う思いから、書物を読み、トロントはもとより、NYにも又世界で初めて同性婚を承認したオランダにも行き無数の人々をインタビューした。その経過をまとめたのがこの一冊である。

 

 

これは私に取って深くて幅の広い学びの経験であったが、知れば知るほどこの程度の理解でゲイだヘテロだを語るのは口幅ったいと思うに至ったのも事実であった。

 

どの人も心の襞を一枚一枚剥がすように思いを語ってくれたのだが、その中には私の義弟も含まれていた。相手の立場を細かく配慮する思いやりの深い彼も、また長い心の旅路の末にカミングアウトした一人であった。一度は結婚し子供も3人いる中で、やはり自分の心に正直にと離婚に至ったのである。

 

フェアウェル・パーティーでの義弟とパートナー

 

彼は、キリスト教の中ではいち早くゲイを承認したUnited Churchの牧師であったが、6月にリタイアして、パートナーと共にシニアライフ入った。若い頃は彼も例外なくいじめに遭い心の葛藤を経験しているせいか、他者を思う優しい人柄が信者たちから絶大な信頼を得ていた。そして最初の結婚で得た子供3 人と孫3人は、今かけがいのない喜びと言う。

 

居並ぶ信者たちに惜しまれて最後の礼拝を終えた後、多くのボランティアが協力して開いたフェアウェル・パーティーは見事なまでに明るく楽しいものだあった。

 

別れを惜しむ信者たち

 

一橋大の学生の自殺

 

さて日本はと見ると、徐々にではあるが、この数年の間に事態が変化していることが分かる。中でも「性同一性障害」に対する人々の寛容さと認識は大きく、先日はお茶の水女子大が20年度からトランスジェンダーの学生を受け入れることを決定した。

 

だが一方、やはり最近だが「ゲイだとばらされ転落死」という記事がネットに載った。「同性愛者であること」を、同級生に同意なく口外され苦しんでいた一橋大の法科大学院生が、20158月学校から飛び降り自殺した事件の引き続きを報じたものだ。

 

すでに3年前のことだが、亡くなった学生(当時25)の遺族、口外した男性、大学も絡む複雑な事件として裁判沙汰になったのである。詳細はネットを見れば分かるが、ゲイであるために消えた一つの命。親の思いは如何ばかりか、考えるほどに心が痛む。

 

無知の極みの杉田水脈衆議院議員

 

 

今は日本ばかりではなく世界の多くのメディアも注目し、醜聞をまき散らした杉田水脈衆議院議員の「『LGBT』支援の度が過ぎる」の記事には、心底呆れてものも言えない。カナダでも報道されたが、同性婚をして子を産まない限り日本社会では人間として扱われないのか?!

 

 

麻生副総理の「法律にセクハラ罪と言うのはない」という放言と共に、日本の国会議員の勉強不足の無知を嫌が上にも知ることとなった。

 

実にお寒い限りである。

 

 

 

 

| - | 13:20 | - | - | - | - |
ハワイの「夏の家(Natsu no Ya Tea House)」

 

日本からアメリカへ渡った移民の歴史が、ハワイから始まった事は広く知られている。今年はその第一歩を記た人々がホノルルに降り立ってから150年目に当たる。

 

そこで横浜にある公益財団法人 海外日系人協会(The Association of Nikkei & Japanese Abroad)が、「海外日系人大会in Hawaii」と称し、ワイキキのホテルで二日間に渡る大きなコンベンションを開催した。

 

毎年この協会は、世界各地に居住する日本人、日系人、またはその関係者たちを集めて東京で大会を開催する。

 

今年で59回目の大会であるが、どの参加者にとっても日本の何処かにルーツを持つ人々が、れぞれに居住する国でどのように活躍しているかを知る又とないチャンスであり、足繁く参加する人たちには旧交を温める場所でもある。

 

筆者も以前に二回ほど参加したが、今回は特に興味深い集いであった。

 

 

日本の歴史を紐解くと、幕末の開国以来外国に出かけた移民たちは、東南アジア、南洋諸島、南米とさまざまである。

 

北米の場合は、ハワイへ18685月に3年契約でサトウキビ耕地労働者として150人程が横浜港を出発したのが最初である。その年の日本国内は、政治的に大きな変化を遂げ「明治元年」と改称されたため、彼らを「元年者(がんねんもの)」と称した。

 

色々な理由で、彼らは明治政府からの旅券の発行もないまま出航したのだが、外国で一旗揚げようと思った人がかなりいたと言われている。

 

しかし到着したハワイでの労働は過酷で、怠けていると白人のルナ(小頭)に鞭で叩かれ、多少の病気では休むことも出来ないと言う奴隷のような生活であった。

 

だがそんな状況を何とか乗り越え、その後明治政府からの協力もあり3年の契約後もハワイに定住したりアメリカ本土に移動した人々は90人近くいたという。

 

150年前と言えばまだそれほど昔とは言い難いが、まさにその元年者たちの努力が今日の日系アメリカ人の礎を築いたのである。

 

マキキ日本人墓地の移民慰霊碑

 

すでに8世までに根を張った彼らは、現在ハワイにおいて政治経済の中心をなす重要なエスニックグループとして、大いなる存在感を示している。

 

これはどの国に移住した人々を見ても同じことだが、事業に成功した者もいれば、失敗して尾羽打ち枯らした者が出るのは人の世の常である。

 

加えて、例え故国を捨てた覚悟ではあっても、自出の国が世界情勢の大きなうねりの中でどの様な立ち位置にあるかによって、移民たちの生活が左右されるのを避けることは出来ない。

 

それが日本人に取っては、1942127日のハワイの真珠湾攻撃によって開始された第二次世界大戦という悲劇であった。

 

この一撃によって、それまで築き上げてきた努力が水泡に帰したのは日系アメリカ人ばかりではなく、カナダの西海岸に住んでいた移民たちも同じであった。

 

今では日本軍が真珠湾を第一の攻撃地として選ん経緯などはすべて解明されているが、中でも非常に興味深いのは、開戦に導くためにハワイにスパイ活動をするための外交官を送っていたことだ。

 

彼は「森村」と言う偽名を使い、ダウンタウンから山の手に登っていく途中にある当時「春潮楼」と呼ばれた料亭に通いつめた。

 

スパイ活動をした現「夏の家」の窓からは遠くホノルルの町が見渡せる

 

ここは真珠湾を一望できるため間諜活動には打ってつけで、アメリカの戦艦が停泊していた湾内のフォード島での動きを望遠鏡で観察していたのである。

 

昔は風呂も完備された料亭だったとかで、彼は当時のお金で月700ドルもを浪費し、また自身の身を四十七士の赤穂浪士「大石内蔵助」に例えていたとも言われる。

 

女将は当時のままの畳の部屋で来客に歴史を語る

 

だがそうとは知らない当時の日系人たちは、彼と親しく付き合い知己を得たようだが、その人物が日本に送り続けた情報によって大戦は勃発したのである。

 

後に日系人たちがどれ程驚いたかは想像に難くないが、同胞を裏切った森村の境地はどんなものであたろうか。

 

真珠湾のUSSアリゾナ記念館の展示室には森村のことがきちんと展示されている

 

紆余曲折の後、戦後は「夏の家(Natunoya)」と改名されたが、森村がスパイ活動をしていた畳の部屋は今も健在でレストランとして営業を続けている。

 

今回イベントの一環である自由参加の市内観光は、ここでのランチが用意されていたのは思い出深かった。

 

いつの世も国を司る指揮官たちの、傲慢と誤った策略から生まれる悲劇は計り知れない。

 

 

 

 

 

| - | 05:43 | - | - | - | - |
聖人フランシスコ・ザビエルの右腕

 

カナダ国内では一番暖かい地域とされるビクトリアでも、一月の寒さはそれなりに身に染みる。そんなある週末の土曜日、市内の某カトリック教会に「フランシスコ・ザビエルの右腕」が展示されるとのニュースが流れた。

 

「えっ、あのフランシスコ・ザビエル?えっ、あの聖人の右手?」と私は驚愕した。

 

教会で配られたパンフレット。若かりし頃はこんなにハンサムだった?!

 

日本で教育を受けた者なら、必ずや頭のてっぺんが丸ぁるく禿げたあの聖人の絵を歴史の教科書で見たことだろう。ちなみに、こうした禿げ方を「ザビエル禿」と呼ぶとか? 或いは、あれは「トンスーラ」という髪型で、真ん中を剃っていたと言う説もあり、髪を生やそうと思えば生えたかもとか?

 

 

彼はスペイン生まれの宣教師で、最初インドやマラッカで伝道生活を送り、そこで知り合ったヤジロウと呼ばれる人と共に、彼の故郷・鹿児島に1500年半ばに渡来した

 

布教活動に心血を注いだものの、幾多の紆余曲折があり多くの困難を乗り越え越えなければならなかった。それでも京にまで上ったが室町幕府は混乱期の真っただ中。更には仏教関係者の根強い反対もあり容易なものではなかった。

 

結局二年ほどの日本滞在の後、種子島などを経て次の宣教地である中国の上川島に向かったが入境はならず、その地で病死(1552年)した・・・。と、まあこの位は歴史の時間に習い知っている人は多いだろう。

 

だが46歳で亡くなった後に、その遺体が何処に安置されているのかは一般には余り知られていない。カトリック本山のバチカンと思うのが普通だろうが、調べると体の部位が世界の色々な場所に分散して保存されていると言う。

 

そんな体の一部である「右腕」がたった一日とは言え、この小さなビクトリアの町の教会に展示されるとなれば、好奇心がそそられるのは当然だ。

 

当日は教会を取り巻く長い行列を予想していたが、三々五々人々は集まって来ているものの、呆気に取られるほど混乱はなく、また写真を撮ることも出来た。

 

教会の聖壇に飾られた右腕の遠景

 

配られた冊子を見ると、彼は1622年にローマ教皇によって「聖人」に認定されたとある。生前彼はこの右腕で10万人以上に洗礼を授け、死後半世紀以上経った1614年に切断された時には鮮血が流れ出たと伝えられている。

 

右腕のクローズアップ

 

ところで名前の前に付く「ST=聖人」を得るのは、どんな宗教人なのだろうか。そう簡単には貰えない称号であることは分かるが、一般には次のようなステップを踏むと言う。

 

まず死後5年以上が経っていること、生前に真実「神の僕」であったことが証明されること、徳を積み重ねていた事が承認されること、奇跡を12回起こした事実があること、等などが認められると聖人表に加えられるのだそうだ。

 

ちなみに97年に亡くなった「スラムの聖女」と呼ばれたマザーー・テレサは、死後19年で聖人の称号を得た。普通は少なくとも数十年はかかるため多くの批判もあると言う。

 

 

今回私が何を持ってこの方面の知識を得たいと思ったかは、自身が幼児洗礼を受けた「元カトリック信者」であることによるが、加えて「長崎と天草地方(熊本)の潜伏キリシタン関連遺産」が、先日ユネスコの世界文化遺産に挑むことになったとのニュースを聞いたからだ。テーマは当時の禁教時代を生き抜いたキリスト教の信仰と言う。

 

しかし文化遺産に指定されるのは結構なことだが、これによって多くの観光客が訪れ、地域で静かに信仰を守る人々の生活が乱されることのないよう切に願いたい。

 

何しろ日本はキリスト教の本来の精神とは全く関係なく、クリスマスともなれば人々は町に流れる♬ジングルベル♬の曲に乗ってプレゼント買いに奔走し、若者は高級レストランでの食事にうつつを抜かし、お父さん達は24日の聖夜には帰宅途中に苺のショートケーキを買って家路に急ぐのが慣例となっているのだ。

 

宗教観とは無縁のこんな現象がまかり通る不思議な国‐それが日本なのだから。

 

 

 

 

 

 

| - | 07:47 | - | - | - | - |
エポックメーキングの年

すでに去年の出来事になってしまったが、2017年はカナダに取って大きなエポックメーキングの年であった。建国150年目という記念すべき年で、周知の通り各地で様々な行事が展開された。

 

 

逆算すると1867年がその一年目となるわけである。それはNAJC40年前に定めた日本からの移民一号とされる永野万蔵が、カナダに足を踏み入れた1877年よりも10年前のことになる。

 

この「永野万蔵パイオニア説」には確たる証拠がないと言われるものの、その年辺りに日本人移民がビクトリア周辺に来ていたことは確かである。となれば去年は大体140年目であったわけだ。

 

加えて第二次世界大戦勃発で、カナダ政府が日系移民をロッキー山脈の麓に強制収容してから75周年目。戦後移住者が来加してから50周年目で、トロントでもバンクーバーでも祝賀会が催された。

 

では2018年はどうかと言えば、これまた大きな記念の年で「日加外交関係樹立90周年」という節目にあたるのだ。だがここで注意しなければならないのは、90周年には二つの考え方があることだ。

 

確かにカナダが日本に公館を設置したのは90年前であるが、日本がカナダに公館を設けたのは一年後であった。これを考えると来年が90周年となるようだ。

 

だがオタワの日本大使館のブログには以下のようなロゴをすでに掲載されている。

カナダと日本の国旗の象徴の色である赤と白を基調にして、日の丸と楓を富士山とロッキー山脈の中に埋め込み、スッキリしたデザインになっている。

 

 

129日には訪日中のジョン・ホーガンBC州首相が、岡本光成外務大臣政務官を表敬訪問し、貿易、青少年交流など幅広い分野に渡っての意見交換をした。その中にはBC州で活動する在留邦人、日系人に対しての支援を引き続き行って欲しいと要請もしている。これに対しホーガン首相は「喜んで支援したい」と返答したと言う。

 

ジョン・ホーガンカナダBC州首相と岡本三成外務大臣政務官(中央二人)

 

では具体的にどのようなことが支援されるのかは、一般人には今一つ定かでない。しかしこの90年の間には、前記のように開戦と同時に日系人の強制収容が行われた。隣国のお騒がせ大統領の例を見るまでもなく、どの国においても一国の対外政策と言うのは、一歩間違えば思わぬ方向に動いてしまう。今後とも日加間に同じような悲劇が起こらないことを切に願いたい。

 

さてカナダではこのように両国間の絆を強める年になるが、米国に目を向ければ、折りも折り日本人移民が初めてハワイに渡ってから150年目になると言う。炎天下のサトウキビ畑での過酷な労働は、想像を絶したと語り継がれている。

 

 

一方本土の日本人移民は、カナダと同様に強制収容されたが、そに伴う政府の措置はカナダの方がより厳しかったとか。しかし米国への移民たちも排日の波で辛苦をなめたのは同じである。

 

最近2011年に発行されたカルフォルニア州の南加庭園業連盟からの小冊子「北米川柳道しるべ」「ガーデナー風雲録」を入手した。ここには移民たちが詠んだ戦前からの川柳が見事にまとめられており、編者であるロスアンゼルス在住の関三脚氏(www.sunnyseki.com)の努力を称賛したい。

 

 

手先が器用なことと土地柄が相まって、移民たちの仕事はガーデナー(庭師)が主流を占め、従事していた人々の喜怒哀楽が連綿と綴られている。

 

幾つかを拾って見ると:

 

移民たちが次々と抑圧されることに手をこまねく日々−

   *排日に薬ないかと腕を組み

 

当時の結婚は写真婚が主。移民の男性も受ける日本の女性も会って見れば−

   *待ちに待ち見れば写真と大違い

 

アメリカに行けば金持ちになると思っている日本の家族に−

   *こちらにも金の成る木は無いと書き

 

漁業に従事した人もいたようで−

  *波までがジャップジャップと船に寄せ

 

苦労の末に子供に教育を受けさせても−

  *秀才も雇ってくれぬ肌の色

 

とは言え、生来が我慢強い日本人。米国に行った移民も、カナダに来た移民も歯を食いしばって生き抜いた。

 

ビクトリアにも残る幾つかの日系人墓地もしかりであるが、心に沁みる一句は−

  *無縁塚風に吹かれて母国向き

 

先日のアカデミー賞のメーキャップ&ヘアスタイリング部門で受賞した辻一弘氏の快挙は、才能と努力はもとより、やはり手先の器用さが物を言ったのであろう。

 

鬼籍に入った戦前の移民たちもきっと大きな拍手を送っているに違いない。

 

 

 

 

 

| - | 07:48 | - | - | - | - |
ノーベル平和賞受賞に寄せて

 

2015年ビクトリアで開催された全カナダ日系人協会

National Association of Japanese Candaians-NAJC)にて

 

 

                                                                                                                                     2018年一月某日

サーロー節子様 

 

お久し振りです!

 

まずは昨年暮れの国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(I Can)のノーベル平和賞の受賞を心からお喜び申し上げます。

 

メディアを通してお姿を拝見する限りでは、お元気なご様子で何よりです。しかし、受賞以来どれ程ご多忙な日々をお送りに

なっていらっしゃるかを想像するにつけ、どうぞお体を十分においとい頂きたいと心より願っております。

 

思い起こすと、2015年度全カナダ日系人協会(National Association of Japanese Candaians-NAJC)のコンフェレンスが

行われたビクトリアのホテルロビーで、バッタリお目に掛かたのがすでに2年半以上も前のことになります。その時はお体の

不調を多少嘆きながらも、杖を片手に変わらずに精力的に活動しておられるのを目のあたりにして、とても感銘を受けたのを

覚えております。

 

私が問わず語りに一年程前(当時)にトロントから西海岸に夫と共に国内移住し、ビクトリアに居を構えたことをお伝えしま

した。それに対し「ここの生活は如何ですか」とお聞き下さり、私は「トロントに比べ冬がとても暖かいのは嬉しいです」と

日常生活を語った後に、「でも物書きとして、ここならではの何かを発見したいと思っている最中です」と申し上げました。

 

そして「トロントに比べての一番の違いは、当地に残る日系カナダ人の歴史の深さです。地理的に見て日本からの移民たちが

まずここに一歩を印したのは分かるのですが、その史跡が140年も経た今もそこここに残っているのにとても驚いています」

ともお伝えしました。

 

加えて「ここにお住いのある白人の歴史家ご夫妻が書いた日系カナダ史『Gateway to Promise』の翻訳を考えているのです」

等と、まだ漠然とした夢でしかなかった夢を、ふと口に出してしまったことに自分でも驚きました。

 

その一歩を何処から始めるか、どうやって始めるか、まだアウトラインすら出来ていないのに軽率にも口にしてしまった自分

を反省しました。

 

でもそれが引き金になって、まずは資金の調達のために、会場でNAJC会長に「今こんな翻訳を考えているのですがグラントを

貰えないでしょうか」と相談を持ち掛けたのです。

 

そうなんです、全てはそこから始まりました。

 

有難いことにその約半年後にはNAJCからグラントを頂き、またその他多くの公共機関や友人知人たちからの甚大なるご協力

の元に、二年後の昨夏20178月に440頁の日系カナダ史の訳本『希望の国カナダ・・・、夢に懸け、海を渡った移民たち』

を上梓しました。

 

ここにご送付した一冊をご覧頂ければお分かりのように、この分厚い翻訳本はまるで西海岸を中心とした日系カナダ人史の

百科事典のようです。くれぐれも440 頁もの本を一気にお読みになるなどのご無理はなさらないで下さいませ。

 

まずは目次だけをじっくりとご覧頂き、将来関連の事柄で詳細を知りになりたいことが起こった時に、何度も紐解いて頂け

ればと思います。

 

しかしその時に16人の翻訳者と、その他諸々の協力を申し出て下さった方々のチームワークによって成し遂げられた一冊で

あることを思い出して頂ければ、これに勝る喜びはありません。

私の方のことばかり書いてしまったことお許しください。ただあの時の節子さんとの会話が、私の背中を押して下さったこと

をお伝えしたかったのです。

 

そしてもう一つ、ビクトリアでお目に掛かった時の心に残る思い出があります。それはコンフェレンス後の会食で、世界平和

を願うご自分の活動に触れて力強いスピーチをなさった後、満場の拍手と共に贈られたファーストネーションの置物を手にな

さいました。

 

 

カナダに住む日系人として私たちがどれ程誇りに思っているかを感じて頂いた瞬間だったと思います。

 

「I Can」のベアトリクス・フィン事務総長と

 

その時の私はまだ詳細は知らなかったのですが、すでにノーベル平和賞云々が話題に上っていたのをふと思い出し、急遽MC

にその旨を伝えました。ざわざわした会場ではありましたが、彼女が一言言及してくれたことが二年後に現実のものとなった

のですね。

 


事務総長と活動家たち

 

「核兵器は絶対悪」ではあっても裏に多くの思惑が絡む核廃絶問題は、一朝一夕に片づけられません。まだこれからも長い

道のりを歩かなければならないことと思いますが、どうぞお体をご留意なさり末永くご活躍下さるよう心よりお祈り申し上

げております。

 

                                                      

 

    サンダース宮松敬子

   BC州 ビクトリア市にて 

                                   

 

 

その後:

 

三月に入って間もなく、サーロー節子さんから拙著をお送りしたことに対して感謝のお電話を頂いた。

ノーベル平和賞のイベント以来、公私に渡り超多忙な毎日とのこと。想像に余りあるものの、何よりもお体をご自愛頂く

よう切に願っている。

 

| - | 09:06 | - | - | - | - |
権利侵害の全景「Landscape of Injustice 」‐その  NHKニュースで放映

 

 

 私は本年5月半ばの当欄で、すでに表題の一大プロジェクトのことを紹介した(その時の和訳は「不正義の風景」であった)。

 

 これは2014年にCanada Council、その他から5.5ミリオンの予算を得て、ビクトリア大学のジョーダン・スタンガロス準教授(42)を中心に、バーナビー市の日系ミュージアムとも連携しながら、7年の長期に渡る共同研究を開始した話である。

 

 重複するが、何を目的にしたものであるかを再記する。

 

 周知の通り、日本の真珠湾攻撃(1942127日)に端を発した第二次世界大戦の開始後、カナダに住む日本の移民とカナダ生まれの子孫たちは、政府の命令一下で財産を奪われ、ロッキー山脈の麓に建てた粗末な強制収容所や炭鉱に送られ、自給自足の生活を余儀なくされた。

 

 それまで主に漁業、農業、林業などに従事し、多くが写真婚で日本から妻を迎え西海岸に根を下ろし生活していた彼らは、まさに一夜にして敵国人になったのである。

 

 何処にもやり場のない怒りや悲しみを経験した人々は二万人にも上った。だが1989年には当時のマルルーニ首相がカナダ政府の過去の過ちを認め、生き残りの日系人1万7千余人に個人補償として一律2万一千ドルを支払った。

 

 しかし開戦後の敵性外国人は日本人だけではなく、イタリアやドイツからの移民も同じ状況下にあったにもかかわらず、彼らにはそのような処置が取られなかった。

 これは明らかに人種差別主義の一部の政治家たちが苛烈な法律を立法化し、日系人排斥へと繋げようとしたことは隠しようがない。

 

 すでに強制収容の体験者やその子孫によって幾多の書物が著され、映像によって過去を記録に残す試みはされて来たものの、多くはあくまでも個人レベルのものが主流を占めている。

 

 それを考えると、日本人、日系人の権利が根底から侵害された全容について、識者たちが丹念に記録を掘り起こし、苦難の歴史を後世に残そうとするこの大きなプロジェクトが進行していることは大変に意味があるわけだ。

 

 大分前になるが、明治学院大学のカナダ文学に精通している某教授のゼミで講演した折、「カナダの日系人は、もういい加減に強制収容関連のことから卒業し前に進むべき」と教授は言った。日本の識者には、そのようにも受け取られてもいるのかと驚いたのを思い出す。

 

 もちろんただ嘆き節として聞けば「もう十分!」となるであろうが、負の歴史は正しく伝えそれを軸に如何に今の社会思想に生かすかにより、後世にまたとない教訓になる筈だ。特に最近は、アメリカを始めとする不寛容な風潮が世界に広がる中で、差別の歴史を振り返り正しく学ぶことの重要性は言を待たない。

 

 ドイツのユダヤ人に対するホロコーストについては深く検証されているが、それに比べ日系人の過去につては、同等の学識的検証が今までなかったことが不思議にさえ思える。

 

 また最近は「Japanese Problem」という寸劇の公演も、プロジェクトの一環として上演されている。政府はロッキー山脈の麓に送り込む前に、バンクーバーのヘイスティング・パークにあった悪臭漂う家畜小屋を急きょ改造し8000人もを一時収容した。

 

演劇「Japanese Problem」のポスター

 

 その時の人々の思いを描いた作品で、多少素人っぽい劇団ではあるものの、それが逆に当時の状況を彷彿とさせているようにも感じられる。

 

ビクトリア市内の Art Gallery of Greater Victoriaで上演された

 

公演後に出演者たちとディスカッション

 

 122日にはNHKNY支局が、この一連のプロジェクトを取材し「おはよう日本」と「ワールドEYES」で採り上げ「カナダ・差別を繰り返さない、日系人の歴史に学ぶ」と題して放映した。

 

 当時の米国における日系アメリカ人たちへの処遇との違いも指摘され、興味深いニュース番組となっている。

 

 折りも折り、すでに何回かに渡って当紙で紹介頂いている翻訳本「希望の国カナダ・・・、夢に懸け、海を渡った移民たち」(原本:Gateway  to Promise)も、強制収容から75周年と言う節目である今年、多くの方々のご協力のもと刊行出来たことを感謝している。

 

 

発売:Nikkei National Museum & Cultural Centre (日系ミュージアムのブックストア)

      6688 Southoaks Crecent, Burnaby, BC, V5E 4M7 Tel:604-777-7000

    税込$29.95

   

 

| - | 04:01 | - | - | - | - |
友達作り

 

 人間は一人では生きられないことを思うと、カナダ人でも日本人でも、気の合った人たちと年代を超え、或いは同年代と友達作りをするのはとても重要に思う。しかし中には″つるむことが嫌い“で、特に「日本人とはいや!」とはっきりと言う移住者の方もいる。

 

 それはそれで問題はなく、英語人(母語とは限らない)と英語でストレートの付き合いをすることに慣れると「言葉の行間を読まなくていいから」気が楽だと言う。確かにそれも一理あるな、と妙に納得させられる。

 

 だがそんな人も、時に英語人で日本びいきの人に出会うと「あの人は日本人の心が分かっているので接し易い」などと言ったりして、こちらの頭は″?マーク“で一杯になる。

 

 長年カナダに住んでいても、日本で生まれ教育を受けた人とのお付き合いは、細部に渡って説明する必要がなく理解し合える気軽さは捨てがたい。

 

 またそれが同年代の場合は、出身地は違っても、例えば人生の節目節目で考えることが同じであったりすると情報の交換が出来る場合が多い。

 

 例えば若い子育て世代なら「日本語継承問題」、子供の手が離れれた人なら「自分自身の再就職問題」、また大きくジャンプしてシニア世代なら「老後の身の振り方」、はたまた「お墓問題」などがある。

 

 世界に冠たる長寿国の日本でも、少し前までは死後のお葬式や墓地のこと等を口にすると、「縁起でもない!」とか「そんなことまだ考えたくない・・・」と敬遠されたものだ。だが時は移り、今は人生の最後を締めくくる「終活」という言葉がまかり通る時代になっている。

 

 カナダの場合は、西海岸のブリティッシュ・コロンビア州が他州に比べ一番気候が温暖なため、カナダのあらゆる寒冷地の町から終焉の地として引っ越してくる人が多い。

 

 事実ビクトリアなどは、昼間外に出ると本当にシニアの姿が目に付きその人口率は21%(2016年国勢調査)である。また元教師という人々が多いのも特徴で、彼等はリタイア後のペンションがとてもいいため物価高のビクトリアでも問題がないと聞く。

 

 ではそのカナダのシニア達はどのように自分の人生を締めくくりたいと思っているのだろう。

 

 知り合いの何人かに聞いてみると、すでにお墓を買って通常のお葬式を選ぶ人、墓地の一角にある自然葬(植物のツルなどで作った棺桶を使いそのまま土葬にして土に還る)を選ぶ人、また公には違法とのことだが、土地柄、海に散骨を望む人など当然ながらそれぞれだ。

 

 古い映画になるが、メアリー・ストリープ/クリント・イーストウッド主演の「マディソン郡の橋(The Bridges of Madison Country、1995年)」では川に、またジョージ・クルーニーの「ファミリー・ツリーThe Descendants、2011年)」では海に遺灰を流すエンディングが話題になった。

 

 だが一般的な風潮として、カナダは日本ほど長寿国ではないせいか(G7の中で二番目にシニアの人口が少ない)、社会的に話題切羽つまった話題にはなっていない気がする。

 

 老いも若きもいつかは訪れる人生の終焉。移住者で先祖の墓地が日本にある人は、分骨を望んだり、或いは遺灰を小さな骨壺やペンダントに入れて子供たちに残したいと思う人もいるようだ。

 

 でも何だかそれでは死者が何時までも成仏出来ないのではないか・・・、そんなふうに思うのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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Functionally Bilingual-カズオ・イシグロ氏ノーベル文学賞に寄せて

 

 どこに出しても全く引けを取らない流暢な英語を話し、読み書きも問題のない日本から来た移住者の女性が、先日裁判所から陪審員になるよう通知が来たので指定日に行ったけど「私は英語が母語でない」のでと断ったと言う。

 カナダの国籍を取っていれば、一度ならずとも、国民の義務として呼び出しを受けることを余儀なくされる。すでに経験済みの方も多いことだろう。

 

 しかしくだんの女性は「どんな事件の陪審員にさせられるかは分からないけど、もし一言でも聞き漏らしたり、間違った解釈をして原告や被告の人生を狂わせることになったらいつまでも自責の念に駆られるし、私は単にFunctionally Bilingualだから」と続けた。

 

 「言葉」の持つ重さに気遣う姿勢に感心しながら、Functionally Bilingualという言葉が気になった。彼女は英語は勿論のこと、しっかりと日本語も維持しているため通訳も翻訳も問題くこなす。それでも人の人生を左右するような立場に立つ程自分の英語は十分ではない、と言うのだ。出来る人ほど謙遜するのかと思い「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という諺を思い出した。

 

 カナダの生活が長いことで日常生活の英語が上達する人は多いが、一方日本語が疎かになる人は少なくない。置かれた環境によるものの、時には日本語の語彙の貧しさにちょっと驚くことがある。

 

 会話中に「どこどこに旅をしたの」とおっしゃるので「どうでした?」と伺うと「面白かった」「素敵だった」「きれいだった」と言うだけで後が続かない。では英語の方が楽なのかと思ったのだが、やはり「interesting」「wonderful」「beautiful」だけなのである。しかし「読み・書き・話す」は別の能力とも聞くので、もしかしたら旅行記などを書いたら素敵な文章でまとめることが出来るのかもしれないが・・・。

 

 永い間気になっていることの一つに、外国に長期間住んだ場合の母語維持の問題がある。良く言われるのは、言語能力というのはその人が頭脳明晰かどうかとは必ずしも一致しないと言うもの。

 

  つまり「言語に対する能力は各個人の才能」に寄与するので、滞在期間とは比例しないというのだ。もちろんFunctionally Bilingualともなれば、両語とも非常にしっかりしている人は多いが、一番残念なのは、日本語も英語も中途半端になってしまうことだ。

 

200年10月17日にトロントで行われたカズオ・イシグロ氏の講演会で持参した本にサインを貰う

 

 つい先日今年のノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロ氏は、長崎生れで父親の仕事の関係で5歳のとき一家で英国に行き、後に両親も含め移住権を取った人である。

 

 彼の日本語学習の変遷は面白い。

 英国在住の両親とは今でも日本で話すと言うが、その言語程度は日本を離れた5歳の時の日本語であり、途中に英単語が沢山混じるため、「まるで日本語であるかが分からない日本語になっている」とあるサイトで冗談交じりにで語っている。

 

 幼少の頃は親が家庭で日本語を教えてくれたようだが、ある時期それは良くないのではと両親が気付き辞めたといい、その決断に彼は感謝しているとか。

 

 イシグロ氏が育った時代は、今の様に外国の多くの街に日本語学校や日本人のコミュニテなどがなかったため、もし無理して漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、「言語感覚が歪んだものになっていた」と氏は述懐している。

 

 “アブ・蜂取らず”の言語教育をしなかったことが、ノーベル文学賞の快挙を生んだと言うことなのだろうか。興味深いことである。

 

 

 

 

 

 

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Toronto での講演会

「希望の国カナダ・・・、夢に懸け 海を渡った移民たち」(Gateway to Promise)をお披露目

   

  三年半振りのトロントであった。

 まだ印刷の匂いがするほどの刷り上がったばかりの翻訳本「希望の国カナダ・・・、夢に懸け 海を渡った移民たち」(Gateway to Promise)を引っ提げて、西海岸から始まったカナダ日系史を紹介するため私は9月初旬にビクトリアを発った。

 

  40余年過ごした第二の故郷とも言えるトロントは、「異民族融合の街」の別名に恥じない賑やかさが一層際立ち、TIFF(トロント国際映画祭)の開催中だったこともあり、街の中心に出るとふと目まいを起こしそうなほど活気に満ちていた。

 

 

ガラスのビルが立ち並ぶトロントのダウンタウンの風景

 

  それは予想していたことではあった。だが海に囲まれたこの穏やかなバンクバー島の、州都市とは言え、決して慌てない街の流れに慣れつつある者には、時にひどく疲れを感じたことも事実だった。

 

 翻訳本の紹介や経緯は、当紙(バンクバー新報) の8月17日号にご紹介頂いた通りで、ボランティアの翻訳者や各方面でお手伝い下さった人々20人程と共に、二年の歳月を掛け仕上げたものである。

 

 すでに英語の原本は5年前の2012年に上梓されながら、日系カナダ人、戦後移住者の人口が一番多いトロント方面では、全くと言ってよいほど知られていなかったのだ。

 

 私が知る限りでは、著者自身が足で歩きこれ程詳細な情報を集めた日系史本は他にないと言っても過言でないことを知り、「是非日本語の読者に」と思い翻訳プロジェクトを立ち上げたのである。

 

 400頁にものぼる分厚い原本は、例え英語を母語とする人々でも、完読する何らかの理由がない限り手に取って読み込むにはかなりの時間が掛かる。

 

 まして日本語を第一言語とする人々には、英語の読み書きに不自由がないとしても、余程強い目的意志がなければ「読んでみようか・・・」と思えないのは当然と言えよう。

 

印刷屋から届いた時の箱に入った訳本

 

 だが後者の人々には、和訳本があれば最初はパラパラと目を通し斜め読みをしながらも、気になったカ所を行きつ戻りつしながら日系史を学ぶことは容易である。

 

 果たして今回トロントの日系文化会館における二回(9月6日、9月9日)に渡るブック・セッションでは、各80〜90人もの参加者があり、日系人はもとより(英語の原本も2017版を再上梓)、日本語を母語とする戦後移住者の間で非常にポジティブに受け入れられた。「この本を読んでもっとカナダの日系史を勉強したい」との声が多く寄せられたのは本当に嬉しかった。

 

Book

トロント日系日系文化会館(JCCC)で訳本を紹介する筆者

 

会場風景

 

Book

お手伝い下さった友人たちが講演会の入り口で訳本販売

 

JCCCの講演会場で

 

  中には「日系シニア(一世、二世の方)の方々がたくさん会場にいらっしゃったのですが、ほとんど日本語が聞こえてこず戦争の爪痕をこんな所で感じました。と同時に、カナダでの日本文化、日本語の継承は戦後の移民である私たちに掛かっていると思い、子どもへの日本語教育により力を入れたいと思います」との意見も聞かれ、思わぬ波紋もあることに驚いた。

 

トロントの翻訳組2人と筆者(中央)

 

 多くの方々のお力を借り、二年にわたる翻訳プロジェクトが無事に終わったことに感謝するとともに、この本を一度手に取り分厚い本自体(440頁‐約800g)と、その内容の重さを体感して頂きたいと熱望している。

 

講演後にJJCCの入り口で

 

お手製の大福も含め、見事なスナックが並んだ会場

 

バンクーバー方面では日系プレースの本屋で英語原本、翻訳本共に購入可能。各$29.95cad(Tax込)

またはメールK-m-s@post.comを頂ければ郵送料別で送付可能。

 

 

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トロント滞在中に永年のお付き合いのある友人たちが開いて下さったパーティーで嬉しいケーキが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 07:11 | - | - | - | - |
「幼児性愛」という犯罪

 

 私は自分の意志とは全く関係なく、生まれてすぐに幼児洗礼を受けカトリック信者になった、というより、させられた。父方の祖母が大変に敬虔な信者で、嫁である母もまたアイルランドから送られた尼僧の先生方が教鞭を執るカトリック系の女学校に通ったことから、英語やフランス語と共にキリスト教を学んだのだ。

 

 そんな環境であったから、私は小学校の高学年になると授業が半日で終わる土曜日の午後(当時は半ドンと呼んだ)に教会に行き、公教要理という聖書の「お勉強」をさせられた。

 

 今は観光名所としてとみに有名な、横浜の外人墓地から少し離れた山手教会が所属であった。神様のお話はとても為になった筈だが、今覚えているのは「神は何である」「愛である」という禅問答のような教え一つである。

 

 何故文句も言わずに通ったかと言えば、理由はただ一つ。行けば貰えるマリア様やキリスト様の描かれた名刺大の聖画や、「メダイ」と呼ばれるロザリオに付ける小さな飾りのメダルのようなものを集めるのが楽しかったからなのだ。丁度その頃の男の子が「面子(メンコ)」を集めていたように、私は教会からの頂き物を大事にしていた。

 

 そんな時期、村岡花子さんが「赤毛のアン」を翻訳しておられ、上梓されるたびにお小遣いをはたいて買っていた。言って見れば私はアンの筋金入りのオリジナルファンで、それは文句なく読書の楽しみを与えてくれたシリーズ本であった。

 

 ところがある日いつも行く本屋の片隅に、顔見知りのイタリア人の神父が身を屈め食い入るように何かを見ている姿に出会った。それはポルノ関連の雑誌が置かれている場所で、子供は暗黙の内に決して近づいてはいけない一角だったのだ。

 

 私はまるで自分がとんでもない悪事を働いたかのような気持ちになり、慌てて本屋を後にした。以後教会では、同神父に出会うのをひたすら避けたのである。

 

 もちろんそれだけが原因ではないが、長ずるにしたがってカトリックという宗教に何か相入れない違和感を覚え始め、祖母や母の嘆きをよそに教会に行くことをきっぱりと止めた。今なら「神父と言えども一人の男か・・・」と思えるが、子供にそんなことは理解できない。

 

 そして今、ニュースになっては消え、消えては浮かぶカトリックの神父による児童への性的虐待報道を見るたびにこの思い出が蘇る。女性の裸体ポルノを見るのと、列記とした犯罪である幼児性愛に違いはある。後者は大方の場合男の子が被害者で、幼い男児は誰にも言えず悶々と悩み、人生さえも棒に振るケースが多いと聞く。

 

 だがこうした事件は今も世界各地の教会で後を絶たず、バチカンはその都度口外しないことを条件に和解金を払い、加害者の神父を他国に移動することで事件を隠蔽し続けてきた。とは言え、そんな醜聞はものともせず、世界のカトリック信者数は12億もいるとか。

 

 残念ながらこうした幼児性愛事件は、カトリックの神父に限った事ではない。スポーツクラブの指導者、またカナダの場合は、昔ファーストネーションの子供たちが無理やり親元から離されて寄宿舎に入れられ、被害に遭ったという話をよく耳にする。

 

 ではカトリックの聖職者の場合は、何を持って事件を食い止められるのか。結婚制度がないことが大きな問題だとの意見も多い。だがそこには、余りにも深い暗黒の闇が広がっているようで、簡単な解決法があるかは疑わしい気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

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