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バンクーバー島から    見たり聴いたり

トロント生活40余年の後に西海岸ブリティッシュ・コロンビア州の首都ビクトリア市に国内移住。新たな街からの生のニュースをバンクーバー発行の日本語誌「バンクーバー新報」に2017年より新連載。
友達作り

 

 人間は一人では生きられないことを思うと、カナダ人でも日本人でも、気の合った人たちと年代を超え、或いは同年代と友達作りをするのはとても重要に思う。しかし中には″つるむことが嫌い“で、特に「日本人とはいや!」とはっきりと言う移住者の方もいる。

 

 それはそれで問題はなく、英語人(母語とは限らない)と英語でストレートの付き合いをすることに慣れると「言葉の行間を読まなくていいから」気が楽だと言う。確かにそれも一理あるな、と妙に納得させられる。

 

 だがそんな人も、時に英語人で日本びいきの人に出会うと「あの人は日本人の心が分かっているので接し易い」などと言ったりして、こちらの頭は″?マーク“で一杯になる。

 

 長年カナダに住んでいても、日本で生まれ教育を受けた人とのお付き合いは、細部に渡って説明する必要がなく理解し合える気軽さは捨てがたい。

 

 またそれが同年代の場合は、出身地は違っても、例えば人生の節目節目で考えることが同じであったりすると情報の交換が出来る場合が多い。

 

 例えば若い子育て世代なら「日本語継承問題」、子供の手が離れれた人なら「自分自身の再就職問題」、また大きくジャンプしてシニア世代なら「老後の身の振り方」、はたまた「お墓問題」などがある。

 

 世界に冠たる長寿国の日本でも、少し前までは死後のお葬式や墓地のこと等を口にすると、「縁起でもない!」とか「そんなことまだ考えたくない・・・」と敬遠されたものだ。だが時は移り、今は人生の最後を締めくくる「終活」という言葉がまかり通る時代になっている。

 

 カナダの場合は、西海岸のブリティッシュ・コロンビア州が他州に比べ一番気候が温暖なため、カナダのあらゆる寒冷地の町から終焉の地として引っ越してくる人が多い。

 

 事実ビクトリアなどは、昼間外に出ると本当にシニアの姿が目に付きその人口率は21%(2016年国勢調査)である。また元教師という人々が多いのも特徴で、彼等はリタイア後のペンションがとてもいいため物価高のビクトリアでも問題がないと聞く。

 

 ではそのカナダのシニア達はどのように自分の人生を締めくくりたいと思っているのだろう。

 

 知り合いの何人かに聞いてみると、すでにお墓を買って通常のお葬式を選ぶ人、墓地の一角にある自然葬(植物のツルなどで作った棺桶を使いそのまま土葬にして土に還る)を選ぶ人、また公には違法とのことだが、土地柄、海に散骨を望む人など当然ながらそれぞれだ。

 

 古い映画になるが、メアリー・ストリープ/クリント・イーストウッド主演の「マディソン郡の橋(The Bridges of Madison Country、1995年)」では川に、またジョージ・クルーニーの「ファミリー・ツリーThe Descendants、2011年)」では海に遺灰を流すエンディングが話題になった。

 

 だが一般的な風潮として、カナダは日本ほど長寿国ではないせいか(G7の中で二番目にシニアの人口が少ない)、社会的に話題切羽つまった話題にはなっていない気がする。

 

 老いも若きもいつかは訪れる人生の終焉。移住者で先祖の墓地が日本にある人は、分骨を望んだり、或いは遺灰を小さな骨壺やペンダントに入れて子供たちに残したいと思う人もいるようだ。

 

 でも何だかそれでは死者が何時までも成仏出来ないのではないか・・・、そんなふうに思うのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 05:46 | - | - | - | - |
Functionally Bilingual-カズオ・イシグロ氏ノーベル文学賞に寄せて

 

 どこに出しても全く引けを取らない流暢な英語を話し、読み書きも問題のない日本から来た移住者の女性が、先日裁判所から陪審員になるよう通知が来たので指定日に行ったけど「私は英語が母語でない」のでと断ったと言う。

 カナダの国籍を取っていれば、一度ならずとも、国民の義務として呼び出しを受けることを余儀なくされる。すでに経験済みの方も多いことだろう。

 

 しかしくだんの女性は「どんな事件の陪審員にさせられるかは分からないけど、もし一言でも聞き漏らしたり、間違った解釈をして原告や被告の人生を狂わせることになったらいつまでも自責の念に駆られるし、私は単にFunctionally Bilingualだから」と続けた。

 

 「言葉」の持つ重さに気遣う姿勢に感心しながら、Functionally Bilingualという言葉が気になった。彼女は英語は勿論のこと、しっかりと日本語も維持しているため通訳も翻訳も問題くこなす。それでも人の人生を左右するような立場に立つ程自分の英語は十分ではない、と言うのだ。出来る人ほど謙遜するのかと思い「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」という諺を思い出した。

 

 カナダの生活が長いことで日常生活の英語が上達する人は多いが、一方日本語が疎かになる人は少なくない。置かれた環境によるものの、時には日本語の語彙の貧しさにちょっと驚くことがある。

 

 会話中に「どこどこに旅をしたの」とおっしゃるので「どうでした?」と伺うと「面白かった」「素敵だった」「きれいだった」と言うだけで後が続かない。では英語の方が楽なのかと思ったのだが、やはり「interesting」「wonderful」「beautiful」だけなのである。しかし「読み・書き・話す」は別の能力とも聞くので、もしかしたら旅行記などを書いたら素敵な文章でまとめることが出来るのかもしれないが・・・。

 

 永い間気になっていることの一つに、外国に長期間住んだ場合の母語維持の問題がある。良く言われるのは、言語能力というのはその人が頭脳明晰かどうかとは必ずしも一致しないと言うもの。

 

  つまり「言語に対する能力は各個人の才能」に寄与するので、滞在期間とは比例しないというのだ。もちろんFunctionally Bilingualともなれば、両語とも非常にしっかりしている人は多いが、一番残念なのは、日本語も英語も中途半端になってしまうことだ。

 

200年10月17日にトロントで行われたカズオ・イシグロ氏の講演会で持参した本にサインを貰う

 

 つい先日今年のノーベル文学賞に選ばれたカズオ・イシグロ氏は、長崎生れで父親の仕事の関係で5歳のとき一家で英国に行き、後に両親も含め移住権を取った人である。

 

 彼の日本語学習の変遷は面白い。

 英国在住の両親とは今でも日本で話すと言うが、その言語程度は日本を離れた5歳の時の日本語であり、途中に英単語が沢山混じるため、「まるで日本語であるかが分からない日本語になっている」とあるサイトで冗談交じりにで語っている。

 

 幼少の頃は親が家庭で日本語を教えてくれたようだが、ある時期それは良くないのではと両親が気付き辞めたといい、その決断に彼は感謝しているとか。

 

 イシグロ氏が育った時代は、今の様に外国の多くの街に日本語学校や日本人のコミュニテなどがなかったため、もし無理して漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、「言語感覚が歪んだものになっていた」と氏は述懐している。

 

 “アブ・蜂取らず”の言語教育をしなかったことが、ノーベル文学賞の快挙を生んだと言うことなのだろうか。興味深いことである。

 

 

 

 

 

 

| - | 10:23 | - | - | - | - |
Toronto での講演会

「希望の国カナダ・・・、夢に懸け 海を渡った移民たち」(Gateway to Promise)をお披露目

   

  三年半振りのトロントであった。

 まだ印刷の匂いがするほどの刷り上がったばかりの翻訳本「希望の国カナダ・・・、夢に懸け 海を渡った移民たち」(Gateway to Promise)を引っ提げて、西海岸から始まったカナダ日系史を紹介するため私は9月初旬にビクトリアを発った。

 

  40余年過ごした第二の故郷とも言えるトロントは、「異民族融合の街」の別名に恥じない賑やかさが一層際立ち、TIFF(トロント国際映画祭)の開催中だったこともあり、街の中心に出るとふと目まいを起こしそうなほど活気に満ちていた。

 

 

ガラスのビルが立ち並ぶトロントのダウンタウンの風景

 

  それは予想していたことではあった。だが海に囲まれたこの穏やかなバンクバー島の、州都市とは言え、決して慌てない街の流れに慣れつつある者には、時にひどく疲れを感じたことも事実だった。

 

 翻訳本の紹介や経緯は、当紙(バンクバー新報) の8月17日号にご紹介頂いた通りで、ボランティアの翻訳者や各方面でお手伝い下さった人々20人程と共に、二年の歳月を掛け仕上げたものである。

 

 すでに英語の原本は5年前の2012年に上梓されながら、日系カナダ人、戦後移住者の人口が一番多いトロント方面では、全くと言ってよいほど知られていなかったのだ。

 

 私が知る限りでは、著者自身が足で歩きこれ程詳細な情報を集めた日系史本は他にないと言っても過言でないことを知り、「是非日本語の読者に」と思い翻訳プロジェクトを立ち上げたのである。

 

 400頁にものぼる分厚い原本は、例え英語を母語とする人々でも、完読する何らかの理由がない限り手に取って読み込むにはかなりの時間が掛かる。

 

 まして日本語を第一言語とする人々には、英語の読み書きに不自由がないとしても、余程強い目的意志がなければ「読んでみようか・・・」と思えないのは当然と言えよう。

 

印刷屋から届いた時の箱に入った訳本

 

 だが後者の人々には、和訳本があれば最初はパラパラと目を通し斜め読みをしながらも、気になったカ所を行きつ戻りつしながら日系史を学ぶことは容易である。

 

 果たして今回トロントの日系文化会館における二回(9月6日、9月9日)に渡るブック・セッションでは、各80〜90人もの参加者があり、日系人はもとより(英語の原本も2017版を再上梓)、日本語を母語とする戦後移住者の間で非常にポジティブに受け入れられた。「この本を読んでもっとカナダの日系史を勉強したい」との声が多く寄せられたのは本当に嬉しかった。

 

Book

トロント日系日系文化会館(JCCC)で訳本を紹介する筆者

 

会場風景

 

Book

お手伝い下さった友人たちが講演会の入り口で訳本販売

 

JCCCの講演会場で

 

  中には「日系シニア(一世、二世の方)の方々がたくさん会場にいらっしゃったのですが、ほとんど日本語が聞こえてこず戦争の爪痕をこんな所で感じました。と同時に、カナダでの日本文化、日本語の継承は戦後の移民である私たちに掛かっていると思い、子どもへの日本語教育により力を入れたいと思います」との意見も聞かれ、思わぬ波紋もあることに驚いた。

 

トロントの翻訳組2人と筆者(中央)

 

 多くの方々のお力を借り、二年にわたる翻訳プロジェクトが無事に終わったことに感謝するとともに、この本を一度手に取り分厚い本自体(440頁‐約800g)と、その内容の重さを体感して頂きたいと熱望している。

 

講演後にJJCCの入り口で

 

お手製の大福も含め、見事なスナックが並んだ会場

 

バンクーバー方面では日系プレースの本屋で英語原本、翻訳本共に購入可能。各$29.95cad(Tax込)

またはメールK-m-s@post.comを頂ければ郵送料別で送付可能。

 

 

             〜*〜*〜

 


トロント滞在中に永年のお付き合いのある友人たちが開いて下さったパーティーで嬉しいケーキが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 07:11 | - | - | - | - |
「幼児性愛」という犯罪

 

 私は自分の意志とは全く関係なく、生まれてすぐに幼児洗礼を受けカトリック信者になった、というより、させられた。父方の祖母が大変に敬虔な信者で、嫁である母もまたアイルランドから送られた尼僧の先生方が教鞭を執るカトリック系の女学校に通ったことから、英語やフランス語と共にキリスト教を学んだのだ。

 

 そんな環境であったから、私は小学校の高学年になると授業が半日で終わる土曜日の午後(当時は半ドンと呼んだ)に教会に行き、公教要理という聖書の「お勉強」をさせられた。

 

 今は観光名所としてとみに有名な、横浜の外人墓地から少し離れた山手教会が所属であった。神様のお話はとても為になった筈だが、今覚えているのは「神は何である」「愛である」という禅問答のような教え一つである。

 

 何故文句も言わずに通ったかと言えば、理由はただ一つ。行けば貰えるマリア様やキリスト様の描かれた名刺大の聖画や、「メダイ」と呼ばれるロザリオに付ける小さな飾りのメダルのようなものを集めるのが楽しかったからなのだ。丁度その頃の男の子が「面子(メンコ)」を集めていたように、私は教会からの頂き物を大事にしていた。

 

 そんな時期、村岡花子さんが「赤毛のアン」を翻訳しておられ、上梓されるたびにお小遣いをはたいて買っていた。言って見れば私はアンの筋金入りのオリジナルファンで、それは文句なく読書の楽しみを与えてくれたシリーズ本であった。

 

 ところがある日いつも行く本屋の片隅に、顔見知りのイタリア人の神父が身を屈め食い入るように何かを見ている姿に出会った。それはポルノ関連の雑誌が置かれている場所で、子供は暗黙の内に決して近づいてはいけない一角だったのだ。

 

 私はまるで自分がとんでもない悪事を働いたかのような気持ちになり、慌てて本屋を後にした。以後教会では、同神父に出会うのをひたすら避けたのである。

 

 もちろんそれだけが原因ではないが、長ずるにしたがってカトリックという宗教に何か相入れない違和感を覚え始め、祖母や母の嘆きをよそに教会に行くことをきっぱりと止めた。今なら「神父と言えども一人の男か・・・」と思えるが、子供にそんなことは理解できない。

 

 そして今、ニュースになっては消え、消えては浮かぶカトリックの神父による児童への性的虐待報道を見るたびにこの思い出が蘇る。女性の裸体ポルノを見るのと、列記とした犯罪である幼児性愛に違いはある。後者は大方の場合男の子が被害者で、幼い男児は誰にも言えず悶々と悩み、人生さえも棒に振るケースが多いと聞く。

 

 だがこうした事件は今も世界各地の教会で後を絶たず、バチカンはその都度口外しないことを条件に和解金を払い、加害者の神父を他国に移動することで事件を隠蔽し続けてきた。とは言え、そんな醜聞はものともせず、世界のカトリック信者数は12億もいるとか。

 

 残念ながらこうした幼児性愛事件は、カトリックの神父に限った事ではない。スポーツクラブの指導者、またカナダの場合は、昔ファーストネーションの子供たちが無理やり親元から離されて寄宿舎に入れられ、被害に遭ったという話をよく耳にする。

 

 ではカトリックの聖職者の場合は、何を持って事件を食い止められるのか。結婚制度がないことが大きな問題だとの意見も多い。だがそこには、余りにも深い暗黒の闇が広がっているようで、簡単な解決法があるかは疑わしい気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

| - | 04:55 | - | - | - | - |
国旗と戦没者慰霊塔

 

今年のカナダ・デー(71日)は丁度土曜日にあたり、建国150周年を迎えるにふさわしいロングウィークエンドの始まりの日だった。

 

 

国中がお祝いムードに包まれ、ビクトリアも好天気で赤白のメープルリーフの国旗が至る所ではためいた。

 

観光シーズンの真っ最中でもあり、ダウンタウンは大変な人出。夜10時半頃から始まった花火大会で気分は最高潮になったが、それはほんの10分ほど続いただけで「おやまあ、この程度の花火は日本なら何処か小さな市町村でも見られるわぁ・・・」なんて内心思ったものだ。

 

 

まあ、そんな意地の悪い見方はさて置いて、特別な祭典のある時期には公共の場にひと際その数が増す、スッキリとしたデザインのカナダの国旗が私は大好きだ。

 

だが当地の新聞によると、近年カナダ・デーに一般市民が自分の家の前庭や窓などに飾る旗の数は、以前に比べ減少傾向にるあるとか。理由は分からないそうだ。

 

 

しかし世界広しと言えども、これ程国旗らしい国旗も珍しいと思うし、何と言っても一目で印象に残る。

 

国旗がはためく世界の祭典オンピックでいつも感じるのは、各国の国旗が並んでも色の配合がゴッチャになり一般の人には区別が付きにくいことだ。

 

例えば「フランス・ロシア・オランダ」「イタリア・ブルガリア・ハンガリー」など並び方が異なるだけで同系色の配合である。北欧の国々に至っては、基本のバックの色が違うところに色違いの十字が配置されている。それぞれの色に意味があり、国民の思いが込めらているのだろうが何処の国の旗か容易には分からに。

 

シンプルで人の記憶に残る図柄と言えば日本の国旗も負けてはいない。真ん中の赤は「日出(いず)る国」を意味するものだが、これは聖徳太子が遣唐使に託した文書に自国をこのように書いて以来の言葉だとは、遠い昔に歴史の時間で習ったのを思い出す。

 

 

一般に「日の丸」と呼ばれる旗の正式名は「日章旗」。日本にはこれ以外にもバックの色が赤で日章旗の真ん中の赤の代わりに菊の紋章が入る「天皇旗」とか、朝日が輝いているように見える「旭日旗」等などがある。不幸にも先の大戦での負の記憶がゴッチャに交差して、特にこの「旭日旗」には今でも不快感を表す日本人や近隣諸国の人々がいるのは確かだ。

 

後一ヶ月で日本は815日の終戦記念日を迎える。国旗と対になって毎年話題に上るのが政治家たちによる靖国神社参拝だ。今年はどの人が参拝するのだろう。

 

終戦記念日ではなかったが、昨年暮れには外交・安全保障政策を担う現職閣僚である稲田明美防衛大臣が靖国神社に参拝し物議をかもした。来月早々には内閣の改造が行われる予定で、稲田明美防衛大臣の解任が決まっている。

 

 

申し訳ないが、あの程度の容姿でも国際会議の講演の冒頭、一緒に居たオーストラリアとフランスの女性の国防省(当時)と自分の容姿について「good looking」と自画自賛する愚かさや、立場の認識に欠ける浅はかな人が去るのを惜しむ声はないだろう。

 

カナダでは首都オタワに1936年に建設され、その後幾つもの戦争で犠牲になった人々も加えられている慰霊塔がある。

 

 

国のために戦った兵士たちを弔うのは真に持って当たり前のことだが、靖国神社ではそれが素直に行えない。周知の通り、理由はA級戦犯(太平洋戦争の責任を負った罪人たち)7人が祀られている(遺骨はない)からである。それ故に国賓も今生天皇も参拝しない。

 

2015年の総務省の発表では、戦後生まれ(昭和20年以降)が8割になったと発表した。戦争の記憶が薄れる前に新たな場所に国立の無宗教慰霊塔造り、誰もがわだかまりなく参拝出来る場所を建設すべきではないかとつくづく思う。

 

 

 

 

 

 

 

| - | 00:27 | - | - | - | - |
生まれ変わった公園

 

ビクトリアの街を訪れたことのある人の多くは、この町の「清潔さ」にまず気付づくようだ。かく言う私も、活気はあるもののきれいとは言い難いカナダ最大の都市トロントから3年前に国内移住した時、まず驚いたのは公共の場のちり芥の少なさだった。

 

美し海に囲まれた町

 

とは言え小規模ながら、ここは州議事堂のあるBC州の州都。

 


国会議事堂の夜景

 

場所によってはゴミも散乱しているし、当然(!?)ながら、ホームレスも居れば麻薬中毒患者がうろつく一角もある。

 

夏を迎える季節になると彼らに関する負のニュースが目立ち、市民に注意を促す記事がメディを賑わす。それは学童たちが公園でエキササイズや各種のアクティビティを行い、また週末には音楽祭を始め野外での催し物が開催されることが多くなることで、公園で寝泊まりするホームレスの問題が再燃するからだ。

 

彼らが捨てる使用済みの麻薬の注射器などが草むらで発見されるなども市民のいら立ちを募らせる。先日はある小学生の女の子が捨てられた針に刺された事件が報告された。

 

都会であれば必ず聞かれるホームレス問題。一年程前までは、ダウンタウンにあるBC州裁判所の裏手に広がる庭に、200 人近い人々が群がり住んで「テントシティ」を呼ばれるコミュニティを形成していた。

 

州裁判所(遠景のビルディング)の裏庭を陣取ったテントシティ

 

騒音、麻薬、売春、不潔な生活からはびこる大ネズミの発生等など、悪の温床と化した場所から彼らを立ち退かすのに関係者たちは躍起になった。

 

反対側にあるカトリック教会

 

もちろん追い出すだけでは問題解決にならないことから、市は彼らの生活の立て直しのために、古い建物や学校を改築するなど2600万ドルもの資金を投入し、一時的/半永久的な低賃金の住宅を提供した。

 

だがこれで問題が一掃したかと言えばNOである。何しろ当市は国内では一番温暖なため、寒冷地のエドモントやカルガリーの某機関は、自分たちの街からホームレスを追い払うためバスの片道切符を渡して追い出すようなこともしている、などの噂も流布されるほどである。

 

ではテントシティ跡はどうなったかといえば、日々子供の歓声が響く遊園地へと大変身した。

 

生まれ変わった公園(遠景に州裁判所)

 

汚染された土を50センチも剥ぎ取り、ダンプトラック75台分の新たな土が運ばれ、何本ものあった大木が切り倒され、子供の身に危険がないように視界が利くことに配慮された。〆ての費用は35万ドル。

 

生まれ変わった公園(遠景にカトリック教会)

 

まさにイタチごっこの感があり、ホームレス問題は今までも、そしてこれからも決して消滅することはない成熟社会が背負い続ける永遠の課題であると言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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不正義の全景

 

 

2017 年のカナダは建国150周年を迎えているため、関連の行事が各地で繰り広げられている。この記念すべき一年は、また日系カナダ人や日本人移住者たちに取っても非常に意味のあるエポック・メーキングの年である。

 

まずはカナダ移民第一号と言われる永野萬蔵が来加してから140年目に当たるのだ。しかし最近の歴史家の調査によると、もっと信憑性のある新説も唱えられ萬蔵説に多少陰りも見える。

 

だがこれは驚くには当たらない。歴史とは常にそういうものであるが、今の所はまだ長崎県口之津の小さな漁村出身の19歳の若者が、1877年にカナダに一歩を踏んだパイオニアと言うことになっている。

 

同時期には同じように、漁村、農村の長男以下の若い男たちが仕事を求めカナダにやって来た。その後一応仕事が安定してから写真婚などで女性たちを呼び寄せ、家族を形成しカナダの日系史が徐々に積み重ねられていった。新開拓地ではその多くが農業や漁業に従事し、真面目に働き生活を築いたのである。

 

しかし残念なことに、1941 128日に母国日本が、第二次世界大戦に参戦し真珠湾を攻撃したことで、米国ばかりではなくカナダの日本人移民たちの生活も一変した。つまり一夜で「敵国人」となってしまった彼らは、政府の命令で19422月までに、ロッキー山脈の麓に建てられた幾つかの粗末な強制収容所に送られたのだ。

 

粗末なバラック小屋の絵が残されている

残されている絵を見ると、そんな場所でも男の子たちはホッケーをして楽しんでいた様子が伺える

 

今年はその悲史から数え75年目にあたる。今までに多くの個人的な体験記や家族の物語、または社会学者、歴史学者たちが事実を記述したことで、関係者以外でもこの歴史を知る人は多い。加えて1989年には当時のマルルーニ―首相によって、日系人桔7千人余人に一律21千ドルが個人補償として支払われ、また日系コミュニティーには復興のための資金が供出されるなどして一件落着したかに見えた。

 

だが当事の日系人たちは、強制収容直前には漁船、家屋、車を始めとする私的所有物のほとんどを政府勅令の保護下に置かれたり、また無理やり売り裁いたりした。しかし終戦後も49年まで法律によって西海岸地域に戻れなかった彼らは、結局すべての物がうやむやの内に没収されたも同然で、持ち主の手に戻ることは一切なかったのである。

 

人種差別が根底にあったこの史実は、金銭で補償されれば済むと言うものでないことは明らかだが、今までに個人的なレベルの調査以外に行われたことはない。

 

だが嬉しい事に、3年ほど前にこの問題に真正面から真摯に向き合い、チームワークによって出来うる限りの真実を掘り起こそうとする試みが、ビクトリア大学で開始された。プロジェクトは「Landscape of Injustice(不正義の風景)」と呼ばれるもので、Canada Councilその他から5.5ミリオンの予算を得て7年の調査期間を予定している。

 

4月末には、興味を持つ一般の人も参加できる現段階の調査報告会がビクトリア大学構内で開催された。

 

4月末ビクトリア大学で行われた中間報告の会合

 

関係者が地道に研究を続けていることが良くわかるものであったが、こうした試みは一重に日系カナダ人の過去の問題に焦点を当てるに留まらない。今世界を席巻している民族主義の風潮に釘を指す意味でも大変貴重なプロジェクトと言える。

 

研究チームの面々。学生も沢山加わっている

 

それにしてもオランダやフランスでの最近の選挙で、極右の政党が政権を取ることがなかった結果になったことは喜ばしい。

 

 

 

 

| - | 06:38 | - | - | - | - |
カナダ建国150周年

 

 

 

 

周知の通り今年はカナダ建国150周年である。

 

 首都オタワや文化の中心地であるトロントでは、町を挙げて創意工夫を凝らした数々の催し物が用意されており、一年を通して次々と賑やかに開催される予定である。もちろん大都市に限らず、至る所で関連行事が繰り広げられるが、そのための予算は中央政府と地方自治体から出ている。

 

 行事は多義に渡っており、アンテナを張っているとビクトリアでも興味あるプログラムが幾つも用意されているのが分かる。

 

 今月初旬Inter-Cultural Associationと呼ばれる行政機関が開催した「I’ve not always been Canadian」もプロジェクトの一つで、私は大変に興味を持って参加した。

 

Victoria 市内のある教会の建物の地下にあるoffice。最近はシリア難民の姿が目立つ。

Victoria市民は温かくうけいれるのだが、仕事がた易くは見つからないのが難点であると言われる

 

 移民としてカナダに来た市井の人々の声を救い上げようというのが、イベントの趣旨である。だが面白いのは「この大陸に昔から住む先住民以外は、当国で生まれようが、外国から移り住もうが元をただせばすべてが移民」という視点を運営委員の人達が持っていることだ。そのため「カナダ人」として生を受けた人たちにも今回は門戸を開いてのイベントであった。

 

 集まった人数はグループとしてまとめ易い30人ほどで、高校生からシニアまでと年齢層も幅広く、半年前にビクトリアに到着した人から半世紀以上も住んでる人までと色々。性別では男性が30%程であった。

 

 こうしたイベントを遂行するには必ず一定の決まりがあるが、ここでも相手の意見を賛成・不賛成にかかわらず尊重し寛容であること。また中傷を含む個人的な悪口などを言わない事などが前もって言い渡された。

 

 プログラムは椅子に座って意見交換をするのみでなく、時には全員が立ち上がり、混ざり合うことで出席者との横の繋がりを持った。パントマイム形式のパーフォーマンスーマンスを披露したり、また小さなグループに別れてテーマに沿って意見を出し合うこともする。

 

 どれも興味深い内容で、特に個々の移民体験談には心打たれるものが多く、それぞれが苦闘しながら新たな国に溶け込む努力をしていることに感銘を受けた。

 

 そして最後に出されたテーマは:

  1. 自分をカナダ人だと思える時は?  
  2. 自分をカナダ人だと思えない時?
  3. 自分をカナダ人と自覚した時は?

などの質問で、壁に貼られた紙に自分の思いを自由に書き込むことが出来る。

 興味深い答えを幾つか拾うと:

  1. 人種の違う人、異なった宗教を信じる人、普通の概念の性別に当てはまらない人に出会った時。鼻毛が凍る時。ホッケイを観に行った時。
  2. 沢山の失業者がいる中、会社のCEOがミリオンものお金を稼いでいると聞く時。ホッケイが好きになれないと自覚した時。
  3. カナダのパスポートを得た時。選挙が出来た時。“Eh”と普通に言えるようになった時。

 このイベントには重ねての会合があるのだが、すべてのまとめは1123日に市内のRoyal BC Museumで発表される予定である。

 

 それにしてもこうした地道な活動を通して、移民の国の移民たちに更なる思いを寄せようとする公共機関の試みには敬服する。と同時に、隣国のツイッター大領の顔が折々に浮かんだのが私一人ではなかったのが分かったのも興味深かった。

   

 

 

 

  

 

| - | 07:42 | - | - | - | - |
ビクトリアの日本人・日系人コミュニティ

 

カナダ広しと言えども、ビクトリアほど教会の多い町はそれ程ないのではと思う。町が小さいからそんな感じを受けるのかと思ったが、調べてみると確かにここにはchurchと名の付くものは180ほどもあることが分かった。

 

Victoriaのダウンタウンには、マリファナの喫える喫茶店の向こうにさえも教会の塔が見える

 

この中には、教会がエスニック・コミュニティの中心になっているものも多い。例えばポルトガル人、ギリシャ人などが良い例で、夏に催される「〜祭」などに行ってみると年齢層の幅は広く老若男女が入り混じっている。彼らの生活には教会と言うものがしっかりと定着しているように見えるが、それでもシニア層は若者の教会離れを嘆いている。

 

若者が多い教会のポルトガル人のパレード

 

ギリシャ人のお祭りにも若者の姿が多い

 

一方、白人の多いキリスト教系の教会に行き参列者を後ろから見ると、白髪、薄毛、染め毛のシニア達がほとんど。それらの人々の合間にごくごく僅かに就学前の小さな子供連れの中年カップルがいる、というのが今日の(少なくともビクトリアでの)教会のあり様のように見受けられる。

 

当地に長く住んでいる年配のカナダ人と話していると、週日でも「今日は教会の何々があって手伝いに行く」と言うようなことを頻繁に口にする。煎じ詰めれば「シニア=教会活動」という構図になり、善意のボランティアによって教会というのは成り立っているのだと改めて知るのだ。

 

では日本からの移住者、日系人はどうかと言えば、小規模ながら彼らが集まる教会は存在するものの、そこが「コミュニティの中心」にはなっていない。周知の通り一般的な日本人は特定の「宗教」を持たず、結婚式は「教会」、子供のお宮参りは「神社」、人生の終焉は「お寺」ということに何の違和感もない国民である事を考えれば、ムべなるかなと思う。

 

では当地の日本関連の団体にはどんなものがあるかと言えば、英語中心の日系人グループ、日本語中心の移住者グループ、子供が日本語学校に通っている親のグループの三つである。だが日常的な横の繋がりは余りないようだ。

 

私的な推察だが、その最大の理由はバンクバーやトロントのように、バックグランドや世代を問わずに集える特定の場所がないことにあると思われる。町の公民館を借りての「お正月会」や「カルチャル・フェア」には、カナダ人・日系人・移住者たちがかなりの数集まる。

 

日系人・日本人移住者の集まるお正月会

 

太鼓の演奏

 

それを考えると、場所さえあればもっとまとまったコミュニティを作り、カナダ人に向けて「日本文化発信の要所」として活動出来ると思うのだ。

 

この島は「午後のハイティー」の風習が今も根強く残るほど英国風で、それを人々はとても誇りにしている。カナダにいてそんな雰囲気を楽しめるのは嬉しい事である。

 

午後のハイティーを供するレストラン

 

一方、ここは太平洋の向こうは日本という地理的条件や、「犬も歩けば国際結婚の日本女性にぶつかる」と言われるほど若い人材がいる町でもある。にも関わらず、語学力もある 彼女たちの持つ潜在能力を発揮出来る場がないのはとても残念である。

 

夫を通してカナダ社会に溶け込んでいるのは真に結構ながら、移住者に取って母国を忘れることは決して出来ない。満たされない思いを里帰りで埋めてしまうのは実に勿体ないことだ。

 

 

 

 

 

 

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米新大統領とアメリカ・カナダの日系史

バンクバー新報 「V島 見たり聴いたり」 2月17日 記

 

  いま書いているこの記事が印刷されるまでに、あのホワイトハウスの新住人が次にどんな大統領令を発するか、また、すでに制定されているどの国際条約を撤回するか全く予測が付かない。先週には日米首脳会談が行われ、戦々恐々だったがまずは無事に終わったようだ。もちろん今後の予断は許せないし、会談の結果を世界がどのように見るかも分からない。

 

 ここに書くまでもなく、今後の彼の言動によって先行きの不透明感や不安感が世界を席巻しているものの、ご当人は表面的には引き続き得意満面で意にも介さない様子を見せている。とは言え、ホワイト・ハウス内は大変な混乱に落ちっていると言う。

 

 だが何しろビジネスマン時代には、法律違反すれすれで事業を展開することを何度も繰り返してきた人だ。

 

理が通ろうが通るまいが、「アメリカ(人)・ファースト」という大義名分ですべてを片付けてしまう。そしてバイブルベルト(アメリカの中央部)などに集中する怨念のある失業者たちから絶大な支持を得ている事に押され、反対する者は容赦なく切り捨てツイッターで個人攻撃の罵詈雑言を浴びせる。そこには指導者としての大局観など微塵もない。

 

  その一つが127日に出された難民やイスラム教徒の多い中東・アフリカ7ヵ国の人々に対する入国禁止令であった。移民国家の将来を憂える声をよそに、直後の世論調査では発令に賛成が49%、反対が41%と出た。

 

 だが数日後にワシントン州シアトル連邦地裁が、この大統領令の一時差し止めを命じ、すったもんだの末、今は七ヵ国からの人々が引き続き入国できることになり、米国の良心を見る思いがした。だが、これも一時的なことと思われる。大統領が次の一手をどのように持って行き、それがどのような混乱を招くか今のところ先行きは不透明だ。

 

 どれもこれも驚く大統領令だが、人種差別に当たる入国禁止令を聞いた時、私は反射的に日系人に対する戦時中の強制移動の史実を思い出した。これは当時の指導者ルーズベルトが出した「大統領令」で、それに呼応するかのように、カナダ政府も日本人移民とその家族たちをローッキー山脈のバラック小屋に送り込んだ。

 

 いま私は、カナダの西海岸を中心にした日系カナダ史「Gateway to Promise」という英語本の邦訳を、16人の訳者を得て出版に向けて日々精力を傾けている。

 

日本語訳が進行中の「Gateway To Promise」

 

 著者は白人夫妻で、自分たちの足で歩き、聞き取り調査をし、関係者にインタビューを試みて西海岸から始まった詳細な日系史を400頁にもなる本にまとめたのである。この中で特に心を打たれるのは移民たちの「家族の物語」で、ただ日本人、日系人と言うだけで善良な市民として暮らしていた人々「強制収容」と言う悲劇を乗り越えなければならなかったのだ。

 

 同じように敵国人だったイタリア人、ドイツ人には同等な扱いがなかったことを考えると人種差別以外の何物でもないことが分かる。

 

 それから75年後、アメリカで今回の大統領令が出された直後に、ケベック市に住む銃愛好家で「白人至上主義」の青年(28)がイスラム教のモスクで銃を乱射し6人を殺害した。

 

 アメリカに比べ、今はかなり移民に寛大なカナダでこんな事件が起きたことは痛感の極みである。 数日後国内の大都市では亡くなった人たちへのビジルが続き、ビクトリアでも市庁舎前に多数の人々が集まり犠牲者と関係者に哀悼の意を表した。

 

市庁舎前に集まった市民たち

 

掲げられた数々のプラカード

 

 

 

 

Helpsビクトリア市長もスピーチを行った。サポーターと話す市長(右)

 

 無知や狭量さからくる事件は痛ましい。

 負の連鎖を繰り返す愚かさを人々は歴史から学ばなければならない・・・、と書きながらも、その言葉が宙に浮いてしまう心もとなさを感じる。

 今後アメリカがどんな方向に動いて行くのかを想像すると、空恐ろしさを覚える。

 

ビクトリア島では、2人の日系二世の女性を除き全ての人が1942年4月22日にロッキー山脈の麓の強制収容所に送られた。

戦争が終わっても当市には一人の日系人も戻ってこなかったのだが、50年後の1992年8月4日に、生存者のうち67人がカナダの各地から集まりリユニオンを行った。このプラグはそれを記念して市庁舎の広場に掲げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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